鼓動

「………本当…なんですか……?」
 駿の耳に入ったその言葉は、その意味を信じる事を拒絶させた。
 海外遠征以来、駿は以前より岡と親しく話をするようになった。岡は信頼の出来る、頭の良い男だ。だが、今しがた発せられたその岡の言葉だけは、駿には信じる事が出来ない。
「ああ…本当だ……」
 辛そうな面持ちで、伏目がちに岡はもう一度はっきりと言った。
「潤はもう、そう長くは生きられない…」
「な…!」
 駿の視界がグラリと揺れた。
(夕貴さんが…!?)
 この前のレースで会った潤は、小憎らしい程に元気で、毒舌で、全然そんな風には見えなかった。いつもと同じで、凛々しくて、華麗で、強くて…
「…でも岡さん、この間は全然そんな…」
 岡は薄く溜息を吐きながら首を軽く左右に振った。
「潤はまだ、この事を知らない…それに今はまだ、病状も表立って現れてきてはいないからな。…駿君、君と戦う事で潤はとても活き活きしている。だがそれは…その残された寿命すら削ろうとしている事に繋がっているんだ…」
「そ…んな…」
 自分が、夕貴さんの寿命を削っている…。
 駿にとって衝撃的だった。たしかに潤に勝つ為に駿は無茶なトレーニングもする。それは潤も同じだった。だが失礼な話、他の騎手ならそこまで無理をしなくても、潤だったら充分に勝てるのだ。そう、駿との戦いを意識しなければ…。
「今の状態で騎手を続けていれば、長くて5年…か」
「5年…」
 普通に暮らしていけば長くも感じる年月。だが、残された時間だと考えると、夢や目標を達成するにはあまりにも足早にすぎていく期間。
 夕貴さんの寿命が…あと5年!?
「こんな事を駿君に言うのは卑怯かもしれない…だが……」
 岡は少し震える声で、力強く言った。
「私は潤を……死なせたくない…」
 サングラス越しの岡の瞳から、一筋の透明な涙が伝い落ちた。

そして、オレの中で何かが壊れた。

 

「…負けましたね」
 アメリカに向かう飛行機の中、駿は隣に座る美しい黒髪の青年に溜息混じり囁いた。
 久しぶりの日本に帰国してのジャパンカップ、勝つ為に渡ったはずだった。だがそこには、想像を絶する馬がいた。
「…あぁ、たいした馬がいたもんだぜ…まったく、完敗だ」
 潤は髪をかきあげながら、思いのほか清清しそうに負けを肯定した。潤にとって悔しさを越えた何かを感じ取った貴重な一戦でもあったのだ。
「…………ええ」
 その馬の名は『マルス』。駿と潤が世界で活躍していたちょうどその頃、日本の頂点にたった馬だ。その馬と戦いたくて来日するも、その馬の命を賭けた最後の走りによって彼らは敗北したのだった。
「あいつ、自分が死ぬのを覚悟で走ってやがった…あの騎手…凪野とかいったな、あいつも…自分の馬が死ぬ気で走ってるのわかってるのに、そのまま走らせていやがった…」
 潤はレースの状況を思い出しているのか、少し遠い目をした。死にに行く馬と、其れを後押しする騎手の騎乗ぶり。
「泣きながら…乗ってやがったんだ。…このまま走らせれば死ぬ事がわかってて、それでも走らせてやがったんだ…」
「………」

『潤は…癌…なんだ』

「あの野郎、走りたがっている奴を最後まで止めなかった…レース前から最愛の愛馬の死を見届ける覚悟だったんだな…」
「…………」

『でもオレは、夕貴さんを最後の瞬間まで走らせてやりたいんです…!』

「……森川?」
 潤は無言になった駿を覗き込んで、その瞳から溢れる涙を見て驚いた。
「ばっ…馬鹿!負けた位で、今更何こんなところで泣いてやがる!みっともないだろ!」
「 ……すいません……」
 潤は嗚咽をもらす駿に困ったように、周りをキョロキョロ見回しながら顔を赤らめた。
「お…お前のせいじゃない、…ボクが読み切れなかったんだ。気にするな馬鹿、もう泣くなッ!」
 潤は窓の外を見ながら、彼なりに駿を必死に慰めた。
「…ありがとうございます……」
 不器用な彼の愛情は駿にはとても暖かく感じられる。だが、この涙のワケは、言えない。
 駿は涙をごしごし擦ると、ちょっと赤らんだ瞳で潤を見つめた。
「きっと…あの馬は、どうなっても走りたかったんです、最後まで走りたかったんです。だからあの騎手は…走らせてあげたんです、あの馬を本当に愛しているから……それが彼らの本望だったんじゃないでしょうか…」
「あぁ…そうだな」
 駿の脳裏に、ジャパンカップの光景が蘇る。一着でゴールし、そのまま息耐えた馬の傍らで泣き崩れる騎手。日が暮れるまで、観客が居なくなるまで、傍らで泣き続けた。そうなるとわかっていて、自分がした事なのに、これで愛馬も本望なのに、その悲しみはいつまでも溢れていた。
 走らせたい、最後まで。でも、失いたくない。その矛盾と悲しみとが自分に重なっていく。でも…
「夕貴さん…」
「…何だ?」
 駿はまだ少し赤い目で潤に微笑んだ。
「また…次の目標に向かって走りましょうね?」
 走らせて…あげたい、最後まで。その瞬間まで見届けるから。
「あぁ、当然だろ!」
 潤は強気な笑みで駿に答えた。その笑みに、駿の瞳から最後の涙が零れ落ちた。

 


「…ここにいたのか、駿君」
「……はい」
 海の見える小高い丘の上に、オレは夕貴さんに会いに来ていた。
「ここは景色がいいですよね…」
「ああ…」
 岡さんはオレの横に座ると、夕貴さんに微笑みかけた。
「潤は…ここを気に入ってくれているかな?」
「ええ、きっと気に入っていますよ」
 身寄りのない夕貴さんは、その全てを岡さんが引き取った。この場所に決めたのも岡さんだった。よく、大レースの前には夕貴さんと二人で来ていたらしい。
「……オレは…間違っていたでしょうか…?」
「………いや」
 岡さんは罪悪感を感じるオレを、父親のようにそっと後ろから抱きしめてくれた。
「潤は…最後まで走ったんだ。誇り高き騎手として、戦場で最後を迎えられたんだ…。これ以上潤に似合う最後は無いと思わないか?それに…当初の宣告より、随分と長らえたとは思わないかね…」
 1週間前のブリーダーズカップ。夕貴さんは一着でゴールして、そのまま動かなかった。オレ達の予想を覆す、突発的な発作だった。こんなに早くに訪れるなんて予想外だった。でも、床で迎えるよりも、彼によく似合っていた…。専門家は第二コーナーで既に意識がなかっただろうというが、オレは最後の勝利のコールが夕貴さんの耳には届いていたと思う。絶対に。
 夕貴さんはおそらく、自分の病気の事を知っていたんじゃないだろうか。だから醜く衰えて行く前に、美しいままターフでの最後を自ら望んだのではないかと思う。
「…はい…そうですね」
 最初は、夕貴さんに騎手を続けさせる事に反対だった岡さん。彼をとても大切に思っていた。だが彼も最終的には、夕貴潤が『夕貴潤』であり続ける道を望んだ。そしてもう、止める事も、止めようともしなかった。
 彼もまた、本当に夕貴潤という人間を愛していたのだ。
「……風が……」
 丘に吹き付ける風が駿の髪を巻き上げる。駿はポケットからお守りを出し、きゅっと強く握りしめた。
 母親の髪
 愛馬の鬣
 そして
 新しく増えた、愛する人の髪で作ったお守り。

潤の長い黒髪がその風になびく姿が瞼に浮かび、
そして…消えた。

end

 

 やってしまった潤様死亡ネタ(苦笑)「新たなるターフへ」のダーク的結末です。続いてるように感じないかもしれないけど、微妙に続いてるのです。真面目に切ない系めざしてみました。
 でもね、潤って本当早死にしそうでしょ?冗談抜きに。あんな無茶ばっかりやってたら本当に死んじゃうよ(苦)花の命は短いのですね…美人薄命ってやつ?

2002.10.13

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