天使の輪
『夕貴さんの髪って綺麗ですね』
どのくらい前だったか、そう言われたからボクは…
「……なんだって?」
潤が不機嫌そうに馬の育成者を睨み付け、馬から降りると被っていたメットを外した。と同時にその中から長い黒髪がシャンプーの良い香をまき散らしながらその背に滑り落ちる。いつから伸ばし始めたか忘れた程の潤の髪は、すでに背中のまん中辺りまで伸びていた。女性も羨む艶のある見事な黒髪、たしかに立派なロングヘア−だが騎手である潤には無意味な長さでもあった。
「いえ、髪…邪魔じゃないですか?って聞いたんですけど…短い方が微量ながら軽くなりますし、メットの中に無理矢理詰め込む必要もないのに…」
「…別に邪魔じゃない。それにそんなのボクの勝手だろッ!」
潤は苛立ちを露に吐き捨てると、髪をなびかせツンと背を向けた。
「今日はもうおしまい、ボクはもう休むぞ!ボクが明日乗る馬の調整しとけよ森川!」
潤はそう言い捨てると屋敷に向かって歩き出した。
「あ、待って下さいよ夕貴さん!」
騎手を引退後、アメリカの岡 恭一郎の元で育成者として第二の人生を歩み始めた森川 駿は、今はかつてのライバル夕貴 潤の乗る馬の育成、調教に日々あけくれていた。
一方の夕貴 潤はというと彼はいまだに現役騎手を続けており、その実力と麗しい風貌は世界でも大いに通用する事を証明した、いまや世界的ベテランの騎手である。
そんな彼らは、いつも些細な事から諍いになる。大体の場合は、潤が一歩的に機嫌をそこねる事が多いのだが。
「…また怒らせちゃったなー…そんなつもりで言ったんじゃなかったんだけど…」
駿は潤の乗り捨てた馬の手綱を引きながら溜息を漏らした。
「……長い…よな、確かに」
シャワーを浴びた潤は髪を乾かしながら鏡の前で呟いた。
確かに、騎手としてこの髪は長過ぎるだろう。駿の言う事は尤もだった。でも…
『夕貴さんの髪って綺麗ですね』
『え?』
『ほら、いつもこんなふうに天使の輪ができてるんですよ?きっと伸ばしたら似合うでしょうね』
『…………邪魔なだけだよ』
『ああそうか…でも綺麗だと思うんですけどねぇ…』
(あいつがそう言ったから…それなのに…)
『髪…邪魔じゃないですか?』
潤は鏡に映る自分の姿を見つめた。長い髪、長過ぎる、その意味のない黒髪。
「…………なんで髪なんか伸ばしてるんだボクはッ…」
潤は意を決したように引き出しから鋏を取り出した。左手で肩にかかる髪を掴むと、首の高さ辺りでその刃を髪にあてる。
意味の無いものなんて…邪魔なだけ。
「夕貴さ〜ん、入っていいですか?」
部屋のドアが軽く2回ノックされ、開いた。
「あの、さっきは…」
怒らせてしまった潤の事が気になってやってきた駿は、目の前の状景に驚いて声をあげた。
シャキンッ!
「な…夕貴さん!?」
バサッ…!
潤の黒髪が一束床に落ちた。
「あああああああああああーーーーーッッ!!!??」
スゴイ駿の声に潤が驚いて振り返る。
「なッ…なんだよ森川…急に入って来んなよ…」
「髪…夕貴さん髪がッ!!」
潤は短くなった左側の横髪を鏡で確認した。短くなった、以前と同じになった、それだけだ。
「…ふん…」
潤は駿を無視してもう一束、髪を握りしめた。
「やめて下さい!」
駿は潤につかみかかると、その鋏の握られた手を掴んで押さえ付けた。羽織ったバスローブがはだけ潤の白い肩が露になり、その肩に乱れた生乾きの髪が纏わりついた。
「なにすんだよッ!」
「夕貴さんこそなにしてるんですかッ!?」
駿に怒鳴り付けたつもりが逆に駿に怒鳴られ、潤の方が戸惑いを感じた。
(…ボクは…なに…してるんだ…?)
駿は短くなった潤の左側の横髪に残念そうに手を伸ばした。
「なんで…なんで切っちゃうんですか!?」
「なんでって…邪魔だから切ったんだよ」
「どうして?さっきは邪魔じゃないって…」
「………」
潤は駿と話しているうちになんだか腹が立ってきた。伸ばせと言ったり、邪魔だといったり、その上今度はなんで切った?だって!?
「なんだよっ!森川が邪魔だって言うから切ったんじゃないかッ!」
「え!?」
「あ…!」
潤はつい口が滑った事に慌てて口を塞いだ。こんな事、言う気なんか更々無かったのに。こんな事言ったらまるで自分が駿に言われるがまま髪型を変えてるみたいに勘違いされてしまう。
…勘違い…?違う、その通りだから。
(ボクは何してるの?なんで髪を切ったり伸ばしたり、こいつのいうとおりにしているの?)
…だって あいつに…ずっと 好きでいてほしいから…
「……オレが言ったから……切ったんですか?夕貴さん」
「………」
駿は一瞬間を置いて、落ち着いた声で言った。潤は駿から目線を反らすとそっぽを向いて黙った。
「……どうして…いままで伸ばしていたんですか?オレが…前に綺麗だって、言ったからなんですか?」
「………」
潤は答えなかった。でもそれが駿には感情表現の不器用な潤の必死のごまかしの行動だとわかっていた。
「そうだったんですか夕貴さん…」
「……なんのことだよ?」
もう駿にはバレバレなのに、まだとぼけようとする潤を可愛く思い、駿は笑みを零した。其れを見た潤の顔が瞬時に赤くなる。駿にはもう、自分の行動を悟られてしまったのだ。しらを切り通す事のほうが逆に恥ずかしい。
「さっき…ね、夕貴さんの髪が邪魔だっていおうとしたんじゃないんですよ」
「な…に?」
駿は床に落ちた潤の髪の束を拾い上げた。20cm程の長さのあるそれをサラサラと指の上で滑らせる。
「普通の騎手なら邪魔だろうに…それなのにどうして伸ばしてるんですか? ひょっとして…オレが伸ばしたら似合う、って言ったからなんですか?…って聞こうと思ったんですよ。もしそうだったら、邪魔を承知で伸ばしてくれてるのが……嬉しいなぁなんて…思ったりして…」
「なっ…!」
伸ばせと言ったくせに、そんな事自分が言ったのも忘れて邪魔だと言われたものだと思っていた。そのことに潤は勝手に腹を立てて、そして切ってしまった。完全に潤の早とちりだったのだ。
「…だから…だからお前は三流なんだよ…ッ、どんくさい奴だなッ!そういうことはさっさと言えよッ!」
「あ、はいすみません」
顔を真っ赤にして八つ当たりのように怒鳴り付ける潤。そんな潤の態度ですら駿は可愛いと思い、照れ笑いを返した。
「………夕貴さん」
「…なんだよ…?」
駿は自分より背の低い潤の顔を上向かせると、そっと口付けた。
「大丈夫…髪が長くたって短くたって綺麗ですよ、夕貴さんは」
にっこり微笑んだ駿に、潤は更に顔を赤くする。
「…そんなのわかってるよ馬鹿ヤロウッ!さっさと調整にいけッ!」
照れ隠しに怒鳴る潤をハイハイとなだめながら、駿は部屋を出る。が、ふと思い出したように足を止め、再び部屋の中の潤に向かって声をかけた。
「夕貴さん」
「…なんだよっ」
「でも…また、髪伸ばして下さいね?メットの外に出したら、騎乗してる時風になびいて素敵だと思うんですよオレ。夕貴さんくらいになるとその程度じゃ騎乗の邪魔に感じないでしょう?」
そう言って駿は潤に笑いかけた。
「…ふん…気が向いたらな…」
−数年後−
『 エルアルコン惨敗ーーっ!!』
「まさか!?」
「そんな馬鹿なッ!?」
「なんだあの馬は…?」
「…エアリアル?そんな馬聞いたこともないぞ…?」
イギリスアスコット競馬場に突如現れた一陣の『風』に 人々は動揺を隠せずにいた。日本の競馬界のトップを担う代表馬が、いとも簡単に一組の競走馬と騎手に抜きさられたのだ。白い馬体にまたがり長い黒髪を腰までなびかせたその姿は、一度目にすると忘れられない華麗な騎乗振りだった。
(最高だな森川、お前の育てたこの『エアリアル』は!)
潤は自分に注がれまくる人々の注目をよそに、ターフにまきあがった風に髪をなびかせながら独り満足そうに笑った。
end
そんなわけで駿×潤の純愛ものでした。魅夜だってたまに純愛くらい書くさ(笑)基本的にこの二人は純愛だわ♪
時期的にはシルフィードとマルスの中間時期くらいのお話。なんで潤様はマルスになったらあんなにドえらく髪長かったの!?ていう疑問の魅夜的考察ですね。
2002.07.11