失楽園
act:12 堕ちゆく魂
「ーーー!」
宿に戻り、ライの入れた茶を手にしたシンゲンは、ビクリと身体を震わせた。
(なんだ……?)
懐に手を入れ、先程持ち帰ったばかりのそれを手に取る。ライから、シンゲンが持っていろよ、といわれそのまま預かっているセイロンの片角。
その角が、騒ぐ。角の魔力が、ざわめいている。
(なにが…起きているッ…!?)
角から感じるあからさまな異変、セイロンの身に、おそらく何かがおきている。すぐに立ち上がり外へ飛び出そうとして、シンゲンは躊躇した。
「………」
奥のキッチンでは、少しでも励まそうとライが自分の為に腕を振って料理をつくってくれている。それを懸命に手伝うコーラル、その二人のシルエットが見える。
「………」
素性のよくわからない自分を仲間として快く迎え入れ、常に仲間として行動を共有しようと接してくれる。楽しい時も辛い時も苦しい時も。
その仲間にこの異変を伝える事が、仲間として自分がその気持ちに応えた証であろう。
(申しわけ有りません御主人…)
だがシンゲンは、そんな二人のいるキッチンに背を向ける。
(自分は…やっぱり身勝手な人間…)
鬼妖界よりこの世界に召喚されてから、己の戦闘力のみを頼りに生き抜いてきた侍。このような環境には正直慣れられなかった。もちろん嫌では無かったし、むしろ、心地よいとは思う。だがやはり、どこか性にあわないらしい。剣を片手に、一匹狼。そんな生活が長過ぎたのかもしれない。そんな性分の侍は、いまからみんなを集めて作戦会議…などという集団生活には馴染めない。
(どうしても…この手で決着をつけねば気が済まないんです!)
己の意志の赴くままに、誰にも止めさせない。誰にも邪魔させない。たとえそれが自分を召喚した『主人』であった者だとしても。全て…斬り捨ててきた。三枚目の芸人を演じたところで、隠し切れない本性。
シンゲンの表情に、夜叉の面影が浮かぶ。
(こんな自分は…貴方達には見られたくありません…)
シンゲンは気づかれないようそっと部屋を出ると、宿の明かりを背に忍びのように足音もなく走り出す。
ざわめく道標の示す方へと。
「セイロン…」
口に龍の角を喰わえたその人は、クラウレの見た事のない人相をしていた。吊り上がった瞳はギラギラと獲物を喰らうように光り、邪気を漂わせるオーラを纏ったその姿は、高貴で優美な面影など微塵も無い。野獣のようなその風貌。
「本当に…セイロンか…?」
それでも近付こうとクラウレが一歩歩み寄った。突然、その人の手がこちらに向けてかざされたかと思うと、クラウレの身体は再び激しく吹き飛んだ。
「ぐはぁッ!?」
気功のような衝撃派。触れずしてクラウレの肉体は大きく弾かれる。確認しようにも、近付く事ができない。
「なんだ…どうなってる!?」
その疑問は、まわりにいた兵士たちも同等のものだった。死にかけていた龍の変貌に、誰もが驚愕と動揺を隠せない。
「構わん、取り押さえろ!!」
だが彼らはあくまでも本来の目的を実行するまでだった。目的は裏切り者と、捕虜の捕獲。兵士達は攻撃対象を呆然としているクラウレからセイロンに切り替え、武器を構え襲い掛かった。
「なっ!?」
赤く光る鋭い瞳。
「ぐわぁッ!?」
襲いくる兵士の一人を掴んだかと思うと、セイロンはその兵士をまるで武器のように持ち上げ振り回した。人で人をなぎ倒し、武器が壊れると新たな武器を手に棍のように振りかざす。それでも強引に間合いに入ろうものなら、その強烈な蹴りで骨ごと砕かれ弾かれる。数で押さえ込もうと群がる羽虫も、先程のような閃光に似た衝撃波が辺りを一掃し、その身に近付く事を許さない。セイロンから発せられる禍々しい気はうねるようにその身を取り囲み、まるで天に昇る昇竜のようにその邪気を形作っていた。
「ーーー化物…ッ」
今のセイロンは元々の高い戦闘力にさらに超人的な力を重ねた、まさに、化物。
「やめろ…やめろセイロン!」
だが、脚の付け根から止まる事のない血を零し続けるその人影は、今にも崩れそうな程に衰弱しているように見えた。力は戻ったのかもしれないが、肉体は回復などしていない。力を取り戻したなら、まっ先にストラをかけそうなものなのだが…セイロンにはその気がないのか、己の傷もそのままに破壊する事のみに力を降り注いでいる。このまま暴れる度に零れ落ちる体液にこれ以上拍車をかけては、せっかく力を取り戻しても肉体がもたず果ててしまうだろう。
「そんな身体で暴れるな…!」
止めに入ろうと駆け寄ったクラウレがセイロンに腕をのばす。
「!」
その腕を、セイロンに掴まれた。掴まれる瞬間は、クラウレの優れた動態視力でさえ見えなかった。それほどの運動能力。
クラウレと視線の合ったその瞳が、その口元が、不気味にニィと笑う。
「セイ…ロン…?」
…見た事のない表情だった。
「ぐあああぁッ!?」
ミシ、と腕が軋みあがり、走る激痛。そのまま腕を掴んで持ち上げられると、クラウレは投げ飛ばされた。
「うぅ…ッ、セイ…ロン…ッ!」
何が起きているのかクラウレは理解が出来ない。あれは、あの身体はたしかにセイロンのはずだ。だがあのあまりにも禍々しい様子は…セイロンなんかではない。あれでは全く別の生き物のようだ。
「…堕竜、だよ」
「!?」
直ぐ近くで聞こえた声にクラウレが頭上を見上げると、城のテラスにギアンの姿があった。
「堕…竜?」
「そう、堕ちた竜…堕竜だ…!」
ギアンはこの目の前の異変に恐怖も不安も浮かべず、好奇の瞳で暴走する龍を興奮気味に見つめていた。
「君も聞いた事くらいはあるだろう?至ることに失敗した無様な竜のことだよ」
僅かばかりの呼気から時間をかけて少しづつ吸収したその力が一定値に達した龍は、再び取り戻した力を奪われる前に竜に至ろうという強行決断を無意識下で本能的に下した。だがそれには現状あまりにも力足らず。付け焼き刃に得た力を無駄に一気に放出させ、至る真似事をしようと暴走したのだ。
本来、至竜になるためには屈強な精神を兼ね備えた魂が必要で、衰弱し意識の無い状態で至れるわけなどない。まして角を失った龍が正常に至ることなど有り得ない事。暴走を始めた者にはかつての自我などなく、視界に入るもの全てに対して無差別に破壊行動を繰り広げる…これが、堕竜と呼ばれし最恐最悪の存在。
「…本当は、トレイユに着いてから覚醒する予定だったんだが、どこかの馬鹿がぐずぐずしているものだから、まさかここで覚醒してしまうとはね」
「なッ…!?」
これこそが、ギアンの計画だった。
「そのつもりで俺を…?」
協力的だったわけではない。助けてくれたわけでも無い。セイロンを堕竜にさせるつもりで…クラウレに運ばせるつもりで…。
綺麗な顔で微笑むと、ギアンは言った。
「あぁ、そうだよ」
「!!」
ギアンはあらかじめ竜について色々調べていたので知っていた。堕竜という存在が、どのように生み出されるのかを。
クラウレが角を持ち帰るのを待ち構えていたギアン。クラウレがそれを拾いにいくだろう事を見越した上で角を捨てたのだ。クラウレがライ達の元にセイロンを返そうとするだろうことも想定内の事柄。だから、クラウレの目の前で角を喰わえてみせた。そうすれば、龍の力が戻るとクラウレに思わせる為に。角を失った意識の無い龍にそんな事をすれば…どうなるかは明白だった。そして暴走する頃を見計らってクラウレに地上に届けさせ、暴れるかつての仲間に殺されて行く姿を見下ろし嘲笑う…それがギアンの計画の全容だった。
「少々計画は狂ったが…まぁいい、私もこの目で見るのははじめてでね、貴重な経験だ。君も良く見ておきたまえ、あれが…」
ギアンは見下したように人の輪の中心を指差した。
「君の育てた『堕竜』だよ、クラウレ」
「ーーー!!」
ギアンの言葉がクラウレに突き刺さる。
「君が、あの男を堕竜にしたんだ」
角を斬ろうと思った時は、ギアンもそこまで考えていたわけじゃない。気に喰わないから斬ってやる、本当にそれだけだった。だがギアンを突き動かしたのは…クラウレの態度。自分に逆らい龍を庇おうとする、忠臣の姿。この計画は、その時に芽生えたものだった。
もしあの時、クラウレが角を拾いに行かなければ…そこでこの計画は終了する。それでもギアンは構わなかった。それはクラウレが死にそうな龍の事などどうでもよく、再度ギアンに忠義を見せたということだからだ。それなら、こんな事をしなくても良かった。だがもし拾いに行ったならば、それは過去を捨てきれずにギアンを欺いたという事。
裏切り者には罰を…それがギアンの流儀。 主人を裏切り逆らったあの瞬間から、クラウレの行動のすべてはこの計画の一旦だったのだ。すべてはギアンの掌の上の出来事。
「しかも角を片方しか持ってこなかっただって?見給えよ、あの不完全な姿。堕竜にもなりきれていないじゃないか。なんという醜さだ」
化物にもならず、人にもならず。中途半端な状態でただ蓄積した力を一気に暴走させる暴れ龍。それを、クラウレに作らせる。助けたいという気持ちを逆手に取り、踏みにじるような、罰。
「…そ…んな……そんな…ッ」
知らなかったとは言え、ギアンの計画の片棒を担ぎセイロンを堕竜にしてしまったのは、紛れも無くクラウレだった。セイロンを堕竜へと堕としてしまったのは、紛れも無くクラウレ自身なのだ。
助けたかったその人を、この世で尤も醜悪な存在へと自分が変貌させてしまったのだ。
「うおおおおぉッ!!」
おかしいとは思った、変だとは気づいていた。だが結局は、自らセイロンを堕竜の道へと導いてしまったのだ。目の前で繰り広げられる惨状を招いた張本人は全て己で、よかれと思って起こした行動は全て裏目に出ていて、最初から最後まで、自分は見事な操り人形で。
全てを知り、嘆き、吠えるクラウレをギアンは鼻で嘲笑う。
「フン…そろそろこの男も、用済だな」
そう小声で呟き、苦笑する。充分に利用させてもらった。流石に、この件以降は自分に忠誠を誓う程馬鹿ではないだろう。ならば今ここで、面倒にならない内に消しておくべきだと。
ギアンはクラウレからは見えないように、右腕に魔力を溜めて行く。この馬鹿な男が打ち拉がれている間に…。
「ーーーッ!?」
ふいに激しい殺気を感じ、ギアンは咄嗟にテラスから飛び退いた。次の瞬間、テラスは爆風と共に粉々に砕け散る。
「かはッ…!」
地に身体を叩き付けられながら、ギアンは身を起こし攻撃の仕掛けられた源を睨みつける。そこには、累々と折り重なる人の山を踏みしめ腕をかざした堕竜が、肩で息をしながらこちらを見ていた。もう手近に倒すものがいなくなったのだろう、遠くで傍観していたギアンにその鉾先は向けられていた。
だがその堕竜はその力を振うだけの充分な肉体を保てていない。もう、立っているのもやっとの状態だ。一歩動くごとにボタボタと血を零し、転びそうになりながら、こちらにゆっくり向かって来る。己の肉体が朽ちかけている事すら、関係ないというように。
「くッ…この…!」
ギアンは立ち上がると服のほこりを払い、ずれた眼鏡を正す。
「死に損ないの化物風情が…この私に適うと思うなァ!!」
向かって来る化物に真っ向から身構えると、ギアンの瞳が妖しく光る。
「ッ!?」
邪眼は、効かない。
「くっ!」
再び飛んできた気弾からすばやく身を翻し攻撃をかわすと、ギアンは動きの鈍っている堕竜の背後に回り込んだ。
「調子にのり過ぎだよ…ーー消えてしまえ!!」
ギアンの得意技、送還術。異世界の存在を本来の世界へ強制送還する強力な術。
…効かない。
「なっ…!?」
完璧に背後を取らえていた、送還術が届かなかったわけではない。送還術はたしかに堕竜を包み、そして相殺されるように消し飛んだ。堕竜のまわりには全ての干渉を打ち消すような、何か見えない力の結界が張られている。
計画が失敗に陥った場合、最終的にセイロンを送還してしまうつもりだった。この堕竜が送還先でいくら暴れようとこちらの知った事では無いからだ。だが、この堕竜セイロンには送還術も効果がない。
「なぜ…効かない…!?」
それもそのはず、送還術などもとよりセイロンに効くわけはない。ギアンは知らなかったのだ、セイロンは召喚獣ではなく、自らの意志でこの世界に来た異色の来訪者だという事を。セイロンの存在には神の力が及び、部外者が勝手に彼の所在を左右出来ないようになっていたのだ。ギアンはこの世界にいる異世界の者は皆召喚獣で、皆送還できると思っていた。そんな例外的存在など、あるわけが無いと思っていた。なにしろ守護竜の力でラウスブルグを動かす以外に、界の狭間を行き来できるものの存在があるなど、ギアンには想定外の事だったのだから。
「くッ…あぁッ!」
次の攻撃は、躱す事が出来なかった。放たれた気弾を自らの魔法で相殺しようとしたが、威力の差に相殺しきれずギアンは後ろに弾き飛ばされる。吹き飛んだ細身の身体は瓦礫の山に叩き付けられそうになり、咄嗟に受け身の構えをとるが…想定していたその衝撃はギアンを襲ってこなかった。代わりに感じたのは、浮遊感。
「ーークラウレ!?」
飛ばされたその身体を抱きとめ空へ退避したのは、自分が散々利用したその男。
「…どういうつもりだ…何故、私を助けた?」
「………」
「貴様、自分がただの利用された道具だという事も理解できない愚か者か?」
助けられながらも、ギアンはクラウレを罵った。助けられた事への感謝など、微塵も感じさせないその態度。
「………」
クラウレはギアンを無言で抱きかかえたまま滑空し、セイロンから離れた城の天守へとギアンを降ろすと、言った。
「俺は…」
少し、迷うような間。そして、すぐにそれを打ち消すように意志の堅い口調でクラウレははっきりと言い直す。
「俺は…貴方を護る為にここに来た。貴方を護れなければ此所に俺の存在の意味はない」
「!」
恨み言さえ抱いていようその対象を、用済で消してしまえと腹の中で考えていたその相手を、この男はそれでも護ると宣った。ギアンの眉が歪む。
「な…んだと…?」
こんなのは知らない。こんな男は知らない。利用され用済になって尚、自分に付き従おうとする者など、ギアンは知らない。
想定外の事は嫌いだった。こんな想定外の返答は、理解できなかった。この男は今回の一件で自分に牙を向く存在になり、邪魔になるその前に消す…そういう筋書きだったのに。なぜそれでもなお、自分を護ろうとするのか。護るということも、護られるということも、ギアンには理解できない。
この男の心情が、わからない。
ギアンはこのような場合どう対処すればいいのか、知らない。
「…………」
無言でその後の言葉を詰まらせているギアンに、クラウレは言った。
「貴方が俺をどう思い、どう扱っていようとも…」
たとえどんな扱いを受けようと、どんな仕打ちを受けようと…それはクラウレには最初からわかっていた事。主人と決めた男が、どのような男なのかということを。それでもその人を護りたいと思ったから、全てを捨てた。誰に言われたのでも無く、自分でそう決めたのだ。
「貴方は、俺の全てだ」
この人を護り、救う事が生き甲斐。それは今も変わらない。クラウレはそういう男だった。
幼き時より妹を護りながら必死に戦い、闇雲に強くなった。妹が強くなり護る必要がなくなった後も、すでに誰かを護る事が当然になって、いつしか護衛する事だけが存在の意義のように感じていた。その働きを見初められたのか、御使いの長などという立場に祭り上げられ、次第に感情は封印され定められた誰かの為にひたすら戦い、本当は己が誰を護りたいのかも麻痺してわからなくなる日々。本当に、自分はこの人を護りたいのだろうか…?ただ護らされているだけで、この人には自分の存在が必要なのだろうか?自分でなくてもいいのではないだろうか…己の存在に沸き上がる疑問。
ギアンに巡り会った時、クラウレはすぐに気づいた。孤独な殻に覆われ今にも壊れそうな精神の弱さをひた隠し、強気に振るまい己の力を誇示する事で己の存在を保とうとしているその弱さに。護る事も、護られる事も知らない淋しい瞳。その瞳に、魅入られた。
『護りたい』と思った。『護らなくてはならない』という責務ではなく、『護りたい』と感情が思ったのだ。この人こそ、己の助けを誰よりも必要としているのだと、勝手にそう感じた。今まで共に暮らした者を裏切ることになるという、総てに背を向ける覚悟で。それまでの人生があまりに真面目過ぎた男は、初めて感じるその罪悪感に身体が熱くなった。興奮した。その興奮にすら、魅入られた。麻薬のように。
己が護りたいものを護りたいが侭に護る。それが初めて見せたクラウレの我侭な自我。 その存在が、ギアンだった。これは運命的な出会いなのだと、そう信じた。この人を救う為に自分はこの世界に残されたのだと、そう信じた。その気持ちは、今も変わらないのだ。どんなに利用され詰られ罵られようと…そんな風にしか周りと接する術を知らないこの人を、救いたくて。
「ギアン様は、ここでお待ち下さい」
「………何?」
クラウレはギアンに背をむけると、城下の竜を見下ろした。
「奴は……俺が止めます!」
清算する事が出来なかった感情が、捨てきれなかった過去が招いた悲劇の存在。己が壊したその存在を、己の手で止める。己が裏切りにより巻き込んでしまい、狂わせた龍の魂を。
己が堕としたその魂を救えずして、他に誰を救うなどと言えるというのか。
「何?貴様ごときにそんな…クラウレッ!?」
ギアンの言葉を聞き終らぬ内に、クラウレは再び空に舞い上がる。
「奴を堕竜になどさせぬ…!堕竜になど…ッ!」
まだ堕ちてはいない。堕ちかけてはいるが、まだきっと、堕ちきってなどいない。角が片方だったのが幸いか、セイロンは完全な堕竜へとなりきっていないようだ。不完全なその力は邪気もまた本来の堕竜の半分の力にも至ってはいないのだろうが、それでも、その強大な力にはクラウレでは到底太刀打ち出来ない事だろう。だが、クラウレには策があった。
そう……口に喰わえた、龍の角。
今のセイロンの力の源であるそれを奪い取れば、力を失った龍は暴走を止めるはずだ。今ならまだ間に合う。今度こそきっと、間に合う。クラウレは邪気を放つ対象に向け突進した。
「セイロンーーッ!!」
睨み返して来る赤い瞳が鋭く光る。近寄った身体が、セイロンの一吠えで吹き飛ばされた。クラウレは体勢を立て直すと、再びセイロンに向かって行く。
「目をさませ…っセイロン!!」
何度も弾き飛ばされながらも、諦めず。神に刃向かう羽虫のようなその姿は、何度飛ばされようともその身に近付こうとして。
「セイロン…セイロンッ!!」
クラウレは叫び続ける。その声がセイロンに届いているものと信じて。
皮膚を裂く風圧、鍛え抜かれた骨をも砕く勢いの蹴り、怒りと憎しみの集結のような気弾、クラウレは次々と繰り出されるありとあらゆる攻撃をその身に浴び続ける。それでも決して倒れず、セイロンの前に立ちはだかる。滑稽な程、必死に。
「…何をしているのだあの男は」
ギアンは眼下で繰り広げられる下らない光景に、眉間に皺を寄せる。
堕竜をもどせるわけなどない。堕ちたものを救い上げる事など出来ない。そんな無駄な事を必死になって。
「無駄だ…もう遅いのだよクラウレ」
だがその男は諦めない。襲い掛かるその相手を救おうと、堕ちかけた龍の魂を『護ろう』と必死になっている。
「……………」
そうまでして、その龍を護りたいのか。そうまでして、その龍に執着するのか。詰られても尚忠義を誓ったその人をこんな所に放置しても。
「貴様…私を護りたいのだろう?…ならば私だけを勝手に護ればいいではないか…ッ!」
ギリ…とギアンは奥歯を噛み締める。いいしれぬ不愉快。感じた事のない苛立ち。
それは、焦がすような…嫉妬心。
「…てしまえ…っ…」
ザワ…とギアンの髪が妖しくうねる。
「消えてしまえ…」
ボゥ…と額が光り出し、妖しげな瞳は更にあやしく輝き、全身が薄明るく発光する。
「あんな龍…さっさと消してしまえッ!!」
叫びと同時に、その身体からは邪気が一気に放出しギアンを包み込む。荒れ狂う気の流れがおさまると、そこに現れたのは真紅の一角を額に浮かび上がらせた凶獣。
「くくく……」
凶獣は城下を見下ろし口元に笑みを浮かべ、ゆらりと天守から身を乗り出した。
「ーーはぁ、はぁッ…セイロン…!!」
立っているのもやっとな程に痛めつけられた身体で、クラウレは尚その人の名を呼ぶ。まるで楽しむかのようにクラウレを攻撃する狂人のような瞳とは裏腹に、限界を迎えた竜の肉体は一歩あるいては倒れ、また起き上がり、クラウレを見て、愉快そうに笑う。
「セイロン…」
見ていられない程の衰弱。それでも、攻撃を止めようとはしない。己の回復などよりも、相手を倒す事しか知らないように。
至竜になるはずだったその男は、下らない暴走により自らの力で自らの肉体を滅ぼそうとしていた。
「もうよせ…」
幼き頃より至竜をめざし日々貯えていた力。クラウレとの手合わせで使う事すら渋った大切な力。こんな、いとも簡単に惜し気も無く、無駄に振われているその力。
「お前のその力は…こんな事の為に溜めていた力ではないだろう…っ!!」
そうさせたのは、誰だ?こんなめにあわせたのは、誰だ?それを棚にあげて、何を宣うか。そう答えるようなセイロンの攻撃がクラウレの身体を弾き飛ばす。
「うぐッ…ッ!」
左翼に走る激痛。もはや自慢の翼は空を舞う事も危うい程にぼろぼろだった。
「お前が…殺したい程に俺を憎むのも当然だ…!」
それだけのことをしたのだ。この男に。
「だが…貴様はセイロンじゃない……貴様には、殺されん!」
自分を殺す資格を持たぬ邪龍になど、この命はくれてやらない。死ぬわけにはいかない。
「俺を殺したくば…正気に返り俺を殺しに来いセイロン!!」
「!」
ビク、と堕竜の動きが一瞬鈍った。
(やはり…!)
その一瞬でクラウレは確信した。クラウレの声は、ちゃんとセイロンに届いている。セイロンはまだ、存在しているのだという事を。 堕ちてなどいない。あの中にセイロンが居る。
「セイロン…」
まだ、間に合うのだ。今度こそ。
目の前のセイロンの、更に内のセイロンに届くように、クラウレは叫ぶ。
「堕ちるな…貴様は堕竜じゃない!誇り高き龍人族が未来の長、セイロンだ!!!」
「ーーー!!」
堕竜の動きが、止まる。攻撃を仕掛けようと振り上げたままその手を止め、堕竜は震えるように、停止する。まるで、動こうとしている己の身体を必死に抑えているように。
(今だ…!)
弱った肉体に、迷いを見せる自我。動きの鈍ったセイロンにクラウレは飛びかかった。
チャンスは今しか無いと思われた。
「ーーー!?」
その時、突如背後から新たな禍々しい邪気が出現し、クラウレの身体はその邪気に弾き飛ばされた。あとすこしでセイロンに届きそうだった手が、無情に空をきる。
「な…!?」
振り返ったクラウレの視界にはいったのは、クラウレが何度も目にしたその姿。暴走をはじめた、ギアンの姿。現れたもう一人の化物は、天守から飛び出すと一直線にこちらに向かい突進してきていた。
「うぁッ!?」
突然、動きを止めていた堕竜が再び牙を向きクラウレに攻撃を再開する。現れた邪悪な気に感化されたのか、再び破壊衝動に支配され、瞬く間に近付く事もままならない程の濃い邪気に覆い尽くされてしまった。
もう少し、だったのに。
「ギアン様、いったい…」
「…消えてしまえ!!」
クラウレの横を風圧が通り過ぎる。
「なっ!?」
移動しながら詠唱をしていたのだろう、ギアンは射程圏内にはいると、直ぐさま強力な召喚獣をセイロンに向けて放った。
クラウレの脇を掠めて放たれた召喚獣は堕竜に直撃した…かに思われた。だが実際は、堕竜の突き出した腕にその身体を御され、攻撃適わぬまま停止しかき消されていた。
「馬鹿にしてくれる…!!」
己の放った術を片腕で止められた屈辱。その行動は、ギアンを更に腹立たせるにはあまりにも充分で。
ギアンの気が、更に強力に、邪悪に膨れ上がる。
「ギアン様…お待ち下さい!ここは俺が止めます!ですから…」
クラウレはそんな二体の狭間で、戸惑う。ギアンが暴走しセイロンとぶつからないようにと、あえて安全な場所に隔離したつもりだった。いくらギアンとはいえ、堕竜にはかなわないだろう。自分の力を自負し過ぎている感のあるギアンは、その力の差を素直に認める事は無い。己の身を滅ぼしてでも、攻撃を止めないだろう。いくら堕竜の力を得たセイロンといえども、獣化し本気になったギアンの攻撃には少なからずダメ−ジを受けることだろう。いまのセイロンには、それに耐えられる体力はない。
だから二人を闘わせるわけにはいかなかったのだ。どちらも、護りたくて。
「そこをどけェクラウレ!!」
「ーー!!」
制止する事など適わぬ程の気迫。ギアンの放つ邪気がクラウレを圧倒する。前からも、後ろからも感じるあまりにも邪悪な気の板挟み。クラウレはよろけるように、その場に膝をついてしまった。
「この…なりそこないの堕竜ごときがァァ…!!」
再びギアンの詠唱が始まった。ギアンの頭上に渦巻く黒い渦。妖しく光るその中から、狂気的な気を放つ邪神がその姿をゆっくりと現しはじめる。
「ギアン様!それは…!!」
すべてを無に還す程の破壊力を秘めし邪神。 ギアンの最強最悪の召喚術だ。こんなところで発動させる規模の魔法じゃない。
「消えろ化物ォ!!」
ギアンはそれを容赦なく堕竜に向けて放った。加減も無く、本気で消し去る為に。
だが相手は先程のギアンの攻撃を片手で相殺した堕竜だ。この攻撃を弾く事も彼には雑作無いことなのか、余裕の笑みを浮かべていた。先程のように堕竜は向かってくる召喚獣に向けて再び手をかざそうとする。…が、突如よろけるように、唐突に倒れた。
「セイロン!?」
器が、もう力についていけていない。肉体が、もう動かないのだ。
無防備な倒れた堕竜に向かい、黒い影がまっすぐに襲い掛かる。
「セイロンッ!!」
咄嗟に夢中で飛び出していた。そんなものを喰らえば、己の身などひとたまりも無い事はわかっている。それでも、クラウレは堕竜の前に飛び出し、庇うように立ちはだかった。何の盾にもならないかもしれない。それでも。
「どけクラウレ…!」
ギアンの声も聞かず。
「どけェェーー!!」
眼前に迫る邪神から目をそらさず。
「セイロン、俺は…貴様を護る資格など無いかもしれない」
まるで制止画でもみているかのよう…ゆっくりと迫るように感じるその姿の前で、クラウレは己の気持ちを再確認する。
「……だが…俺は…身勝手な男だ…!俺は…貴様を護りたい…!!」
だから…護りたいものを勝手に護るのだ。相手に受け入れられなくとも、拒絶されようとも、護る資格など無くとも。己が護りたいと感じたものを護る。不器用な己の、それが、最大で唯一の喜びだから。
「どれだけ堕ちた存在になろうと…貴様を死なせん!!」
その男はあまりにも強すぎて、自分が護る必要など微塵もないと決め込んで。自分がいなくなろうと、奴にはなんの影響もないのではないかと決め込んで。全てを押し付け、自分をより必要としていると感じた場所へと飛び去った。見捨てた。裏切った。
それなのに…今はただ、この龍を護りたい。
裏切ったはずなのに、捨てたはずなのに。いっそこの手で殺そうとも思った…だができなかった。全ての関係を断ち切ったつもりでも、気持ちだけが、残ってしまった。この期に及んで図々しくも思う。
この龍を、セイロンを…今もかわらず愛しているのだと。
「……ク…ラ……ウレ……?」
名前を、背後から呼ばれた気がした。
「!?」
同時に、クラウレの身体は強い衝撃により右に大きく弾かれる。
「ぐがッ…!?」
目の前の邪神が襲い掛かるその前に、背後からの攻撃。クラウレの身体は弾かれ数転する。
「なん…っ…?!」
何が起きたか瞬時に把握できずに、すぐに身を起こしクラウレは顔をあげた。
視界に入ったのは、己が立っていたはずの其所に襲い掛かる邪神の姿。
「ーーーーーー!!!」
激しい閃光と地響き。邪神はその対象に力の全てを叩き付けた。
光の中心で、正面からその攻撃をまともに喰らったそのシルエットが浮かび上がる。先程のように防いだ様子もなく、直撃を受けていた。周囲はその衝撃でまるで爆弾でも投下されたかのように破壊され、天に浮かぶその大地は砕け、地面は壊れ浮き上がり、重力に従い遥か地上にむけて傾れ落ちる。
こぼれる大地に混じり、人影が一つ…落ちる。
「く…は……ははは…落ちろ…!落ちろ!堕ちろーーーッ!!」
落ちて行く姿を見下ろし、ギアンは狂ったように笑い続ける。動く気配のない落ちゆく影。弱っていたとはいえ、不完全だったとはいえ、この世で最強の存在のひとつといわれる堕竜を打負かしたのだ。
堕竜をも倒す己の力の賞賛、そして邪魔な存在の消えた満足感。
「勝ちだ…私の勝ちだ!!私こそがこの世の最高の存在ィィ!!」
最強の己の存在、もうそれ以外の事はギアンにとっては視界にも入らない些細な事だった。そう、例えば瓦礫の傍に蹲るクラウレの行動とか。
「セイロンッ!?」
最後にクラウレを弾いたのは、確かにセイロンだった。堕竜ではなく、セイロンだったのだ。その為、攻撃を防ぐのが間に合わなくなったのだろう。
クラウレの目の前を、翼を持たぬその人が…自然の摂理に従い、落ちて行く。
「セイロンーーーーーーッ!!」
落ちゆく人影に、クラウレは懸命に腕を伸ばす。
腕は、届かない。
「うおおおおッ!」
クラウレは大地を蹴ると、落ちて行く人影にむかって空へ飛び込んだ。翼を畳み、落ちゆくその人を追い掛けるように自らも自由落下。描いた思いは…一つだけ。
届け、と。
2007.09.01