失楽園
act:
16 言葉として言い尽くせず

 



「!」
 何かに急かれるように、セイロンは眼を覚ました。
「…ここは……」
 視界に入った景色は、一瞬今の自分の状況を見失わせる。
「ようやくお目覚めですか?」
 そして、聞き覚えのある声。
 セイロンは視線を声の方へ動かした。そこには部屋の扉に凭れ掛かり、緑色の着物を纏った侍がいる。
「シンゲン…か?」
 どうやらここはラウスブルグの牢獄ではない。柔らかいベッドと、視界に映るその男の存在が、そう納得をさせた。ようやく、セイロンはそこが見覚えのある場所だという事に気付くのだ。
「御主人の宿ですよ。ここは」
 シンゲンがセイロンを連れて宿に戻ると、皆驚きと喜びを露にセイロンを迎えた。無傷過ぎる身体と、綺麗過ぎる衣。それでいて衰弱した肉体と目に見えない内臓の傷。それはあまりにも疑問の残る帰還だった。それでも皆、そんな事は何も問わず、黙ってセイロンを介護した。何があったのか誰も聞かず、シンゲンも詳しくは話していない。
 ただ、仲間が無事に帰って来てくれたのだからそれでいいのだと、彼等はセイロンを迎え入れたのだ。
「そう、か…」
 助かったのだな、とセイロンは理解する。助けられたのだ、と。

「……す…まぬ」
 何にたいしての謝罪なのか、何を言っていいのか、わからないままセイロンはそう一言、言葉を発した。
「………」
 シンゲンはそれには言葉を返さず、ひとつ溜息を漏らす。謝られたって、何と言葉を返すべきかわからない。
 シンゲンの心に渦巻くものは、安堵と、怒りと。
「さて…それでは今度はこちらが問わせて頂きましょうか」
 そんな胸中の定まらないままシンゲンの発した言葉は、とてもシンゲンらしく。
「今までどこで、何をされていたんですか?」
 意地が悪く、無遠慮で。
「っ…!」
 その問いにセイロンの表情が強張る。空で、何をされたか。それは屈辱的で忘れたい出来事。僅かに開き何か言葉を発しようとした口元は、きゅっとへの字に結ばれ固く閉ざされる。
 シンゲンはそんなセイロンの様子を黙ってみつめ、数秒おいて溜息をもらした。
「……冗談ですよ」
 まるで自嘲するように苦笑する。
「そんな事…聞きたくもありません」
 あの時の状態をみればわかる。聞くまでも無いのだ。だが聞きたくなどないのに、この人の口からあえて言わせてやりたいという意地の悪い感情が己の中にあることもシンゲンは自覚していた。何も語ろうとしないこの人を酷く罵ってやりたい感情に見舞われていることも。こうして今手元に戻って来た安心感と共に、セイロンに対するどうしようもない怒りが、己の中にはっきりと。
 本当はそれを吐き出して、この人をもっと追い詰めてやりたい。そう思う感情を、シンゲンはぐっと堪える。今の傷付いたこの人の前ではと。
「………すまぬ……」
 そんな様子のシンゲンの態度に気付いているのか、セイロンの口から、もう一度謝罪の言葉。だがその言葉は逆に、シンゲンを苛立たせた。
「謝るくらいなら」
 シンゲンの口調がきつくなり、押さえ込もうとしていた感情が露になる。
「身勝手な行動は最初から慎んでいただきたい」
「…………」
 叱るような厳しい言葉に、セイロンは反論する事無く顔を伏せた。
 身勝手。
 確かに、それ以外の何でも無い行動をとった結果、この始末なのだ。自業自得も甚だしい。仲間に迷惑をかけたあげくに、こうしてまた仲間に助けられ。一体何をしているのだろう。衝動的に動いたその先に得るものは何も無く、裏切りの再確認と与えられた屈辱の記憶。あげく大切な角まで失う始末…。
「ーーー!」
 セイロンは突如思いだしたように、手を己の頭に運んだ。
「あ…」
 するとそこには、無いはずのモノが…有った。
 セイロンは瞳を見開き、驚きを露にする。
「角…が…?」
 失ったはずの己の欠片。
「角が、どうかされましたか?」
「我は…たしかに角を…」
 動揺するセイロンに、彼のその疑問を知る男がゆっくりと歩み寄る。
「えぇ、見事に折られておりましたな」
 それは、紛れも無い事実。
「やはり…折れていたのだな?」
 だが今ここには己の頭に聳える二本の角。そしてその蓄えし力すらも、以前と同等のそれに感じる。まるで折られてなどなかったように、満ちた力を。セイロン自身角を折られたのは初めてではあった。折られても時間がたてばある程度の回復はすると聞いてはいたが、まさか、こんなに早くここまで回復するとは思えない。
 確かめるように己の角にもう一度触れたセイロンは、何かに気付いた。
「…これは……」
 角から僅かに感じる、竜の力。
「………そう、であったか…」
 これは、己の貯えた力では無い。崇高な…至竜の力。セイロンは悟る。この角を癒した存在を。
「我は…まだまだ未熟者だな」
 鬼妖界で、ラウスブルグで、そして今ここリィンバウムでも。あちこちで先人に世話を焼かせてしまっている。己が目指す、その高みを極めた者達に、見守られ、助けられている。
「これは…飴くらいでは足りぬな…」
「…は?」
「いや、なんでもないのだよ」
 自分にしかわからないような独り言をつぶやき、セイロンは角を慈しむように指を滑らせる。その存在を確かめるように指で輪郭をなぞり…だが角に触れているうちに、欠落して居たセイロンの記憶が徐々に蘇ってくる。
 
失った角の力を一時的に得た時の、記憶。
「………!」
 思いだしてしまう。
自分が何をしたのかを。
 その記憶は思いだすにもおぞましく、受け入れる事をも拒みたくなる事実。 敵側とはいえ、自分の周りに群がる者を塵のように蹴散らし、肉を裂き骨のくだける音を聞き、それらの感触に酔いしれた記憶。そして自分を助けようとしたその男をも…。
「…どうしました?」
 セイロンの顔色が変化した事に気付き、シンゲンが声をかける。
「う…!」
 思いだした己の凶行に吐き気を催し、セイロンは蹲った。
「大丈夫ですか!」
 シンゲンは即座に崩れたセイロンの身体を腕で抱き竦めると、濡れタオルを入れていた器をセイロンに差し出した。
「出しなさい。楽になります」
「う…ぅ」
 首を横に振り、堪えようとするセイロンにシンゲンの声が強まる。
「吐き出しなさい!何を溜めるんですか!」  
 ビク、とセイロンの肩が震え、間もなくセイロンは器に顔を埋めた。
「…っ…げホッ、…けほっ…」
 数日何も口にしていない身体からは、胃液と、まだ内臓の傷が癒えていないことを示す少量の血が同時に吐き出される。シンゲンは背をさすりながら、咳き込むセイロンがおさまるまで介抱しつづけた。
「はぁ…はぁ…」
「…少しは楽になりましたか?」
「…………」
 セイロンは黙ったままいたが、暫くして大きく溜息を吐き小さく頷くと、 咳き込み強張っていた身体から力が抜け、脱力したようにシンゲンにその身を預けた。
「シンゲン…」
「何です?」
 セイロンは僅かに顔をあげると、シンゲンを見上げる。
「我は…今、人の顔をしておるか?」
 その顔は弱々しく不安げで、いつもの自信に満ちあふれた彼のものとは似ても似つかない。
「ただの情けない人のお顔ですな」
「そうか…」
 失っていた意識の中で暴れ狂う己の姿は、己が見ても恐ろしい程の邪悪な存在。だが紛れも無く己。紛れも無く己自身のなかにある邪な自分自身。自分に近付くもの全てを破壊する邪神。
「………」
 自分の中に、アレが存在している事実。恐怖。嫌悪。罪悪感。そして感じた事のない破壊の快感。
  一歩間違えば、自分は簡単にアレへと変貌する可能性を秘めた存在なのだという事を実感させられた。亜竜というのはとても不安定で未熟で、なんという、恐ろしい存在なことか。
 セイロンの身体は、無言のまま震え出す。
「…まったく」
 シンゲンは突然、そんなセイロンの身体を抱き締めた。
「!?」
「何があったかは知りませんけどね」
「放っ…さぬか…!」
 身じろぐセイロンを力で押さえ付けるように抱くと、シンゲンは強引に自分の胸にその顔を埋めさせる。
「貴方は生きる為に必死だったんですよ」
「!」
 まるで空を見て来たかのように、シンゲンは言った。
 シンゲンも気付いていたのだ。あの時セイロンの身体にこびりついた血が、彼のものだけでは無い事には。
「己が自由を掴む為に、束縛するモノを切り捨てちゃいけませんか?」
「な…」
 シンゲンの独論はとても自分勝手で。自分の経験に基づいた乱暴な思想。
「神が咎めても、自分はアンタを咎めやしません」
「……………」
 だがそれは、時として追い詰められた心には救いの言葉にも聞こえるもので。抱き締められる体温に包まれながら、セイロンは下唇を噛んだ。そんな間違った言葉に絆されてはならぬと思っても、弱い心が、確かに癒されるのを拒めない。
「何を着飾ってるんです?」
 シンゲンの声は優しく、少し戯けたように。
「貴方は…自分が思っているよりずっと、格好悪いお人なんですよ」
「…!」
 その言葉に、セイロンの瞳から溢れるように雫が零れ落ちる。
「う…う…」
 次々と溢れて来るそれを、とめる事ができない。
「う…うあぁ…」
 セイロンの手は縋るようにシンゲンの背にまわされ、しがみつく。
「それでいいんです」

 見た事も無い、泣き崩れるセイロンの姿。
「すごく…みっともないですよ」

 
シンゲンはセイロンの髪に静かに手を差し入れ、優しく撫でた。セイロンの頭を撫でていたその手はそっと角に触れ、角先に顔を近付け口付ける。あれほどシンゲンが角に触れる事を叱咤したセイロンはそれを拒む事なく。それはシンゲンにすべてを許したように。凛とした高貴な魔力を触れた唇から感じ取りながら、シンゲンは自分よりもずっと年上のその人を、子供をあやすように優しく強く抱きしめた。
「…落着きましたか?」
 嗚咽の声がおさまり自分の腰にまわされた手の力が緩まったのを感じ、シンゲンは撫でていた頭に話し掛ける。
「我は…」
 セイロンの声は、大分落ち着きを取り戻していた。
「…いつかそなたをも殺めるかもしれぬ…」
 だが、その内容はまだ不安に揺れている。
「また…あのような事にならぬとは…いいきれぬ」
 同じような状況に陥れば、また。セイロンはその可能性が己の中にあることを否めない。自分はそれほどの危険をあわせ持った存在なのだ。その危険を、周りにも伝えておかなければならない。
 それを知ったうえで、皆がどう接してくるのかを思うと…不安になる。此処にいてもいいものかと…疑問を感じてしまうのだ。
「邪魔になるなら、どうぞ切り捨てて下さい」
「!」
 セイロンのいっている事がどのような状況なのかを知らないはずのシンゲンは、揺るぎない程しっかりとした口調で言った。
「自分も、手に負えないと判断したら…貴方を切り捨てます」
 迷い無くそう言った言葉は、救いの言葉にも似て。
「…そうか」
 セイロンの口元に、笑みが戻る。
「野蛮な思想よの…」
「えぇ、自分は野蛮人ですから」
 悪びれもせずそう言い放つシンゲンに、セイロンは苦笑する。
 この男はそうするだろう。この男ならきっと、狂った己を断ち切ってくれる。迷いなく。
「…そなたらしいな」
 セイロンは不思議と安堵感を覚えた。ここになら、この男の隣になら、居られる…と。
「神も…こんな我を見捨てた訳ではないのだしな」
 角に触れ、その存在を確かに感じ取り、セイロンは自嘲気味に笑みを浮かべる。神に見限られたのなら、このような処置を施してくれる訳など無い。自分にはまだ、何かを託されているのだ。成すべき事を果たせと、神に再び生を与えられたのだから。
 だから、まだ此所に居ていいのだ。きっと。
「フ…いつまでも臥せっている場合ではないな。我にはやらねばならぬ使命があるのだから」
 先程まで泣き崩れていた男は、凛とした態度で顔をあげた。
 もう、泣いていた面影はない。
「…貴方らしいですな」
 シンゲンはそんなセイロンを見て苦笑した。安堵したように。
「さて、独り占めもなんですから、御主人たちを呼んで来ましょうかね」
「あぁ…すまぬな」
 シンゲンはセイロンをベッドに横たえさせると、セイロンの回復を悦んでくれる人物の名を口にした。そろそろ、このセイロンなら皆にあわせても大丈夫。そう判断したのだ。
「…シンゲン」
 セイロンは皆を呼びにいこうと部屋の扉に手をかけたシンゲンに、背後から声をかける。
「ひとつだけ聞いて良いか」
「なんでしょう」
 シンゲンは首だけを振返らせ、それに答える。
「我をみつけた時、そこに…」
 セイロンの記憶は、我を見失った己が空から落とされる所まで。そのとき、確かに自分に向かって飛び込んで来る男の姿を、確認した。その手は必死に自分に向かって伸ばされ…そこで、途切れる記憶。角から読み取れた記憶は其処までだった。そのあとは…わからない。
「クラ」
「貴方だけでしたよ」
 セイロンの言葉を打ち消すように、シンゲンは重ねた。
「…そうか」
 それが、嘘だと言う事は明らかだった。
「それでは、御主人達を呼んで来ますよ」
「…うむ」
 だがセイロンは、それ以上問う事はなく。顔を少し伏せ、部屋を出ていくシンゲンの背を無言で見送った。



 
それ以上は…聞けなかった。




→act:17



2008.10.19

 

戻る