千と一夜の地下室
第一幕「廃人と廃材」
それにしてもここは何か変な感じの街だ。昼だというのに殆ど人通りがなく、街が眠っているようだ。ただでさえ人通りのない中心部を一歩離れると、其処はスラムのような町並みを覗かせている。
(いわゆるヤバイ街って感じだな…。)
でも俺はその雰囲気に恐怖という感情は湧いてこなかった。もし俺を襲いたい奴がいるなら、襲えばいい。金いっぱい持ってるぜ?俺。殺りたきゃ殺れよ。俺はもう何もいらねぇんだよ。…なんて思ってるからなのかもな。
ヤバげな街を気にせず歩き回っていると、ふと耳にやわらかな旋律が聞こえてきた。ギターの音だ。あえて逃げるように避けてきたその楽器の音色に、不意に懐かしさが込み上げて来る。
俺は無意識に音のする方へと脚を運んでいた。誘われるままに奥まった路地へと進む。そして昼尚暗い路地のその奥に、彼は居た。
白い肌と肩まである色素の薄い髪、骨張った四肢に虚ろげな目が病的な美しさを醸し出している。廃材の上に腰掛け古びたギターを奏でる姿はどこか芸術を感じさせた。もっと近くで見てみたい、自然とそう思った。
「………。」
流れる旋律が止まった。人の気配を感じたのか、彼はゆっくりと顔を上げ俺を見る。先ほどの虚ろな目つきとは違い、キツく攻撃的でまっすぐな瞳。
「あっ…と、邪魔したか?その…懐かしいなぁと思って……」
咄嗟に出た言葉はなんだか言い訳じみていて…言い訳?…何に?彼に?…それとも、俺?
「…昼は時間外。」
「え?」
そう言うと廃材からふわりと飛び下り、近くの路地に消えていった。
「あ、おい!?」
俺は無意識に後を追っていた。しかし駆け込んだ其処は袋小路になっていて、彼の姿はもう見えなかった。そう、袋小路なのに、だ。
(…消…えた?)
まるで空にでも溶けてしまったかのように姿を消した彼、その姿は一瞬の幻影だったのかとさえ思えてくる。いや、幻影なんかじゃない。耳に残るあまりにも鮮烈なギターの音、確かにあの音は此処に存在していた。途切れた旋律の続きが気になってしかたがない。また、此処にくれば彼はいるだろうか?
(…ギターからはもう離れるんじゃなかったのか?俺。)
俺は苦笑した。
(このへんだったと思ったんだけど…。)
似たような薄暗い路地にあいかわらずの人気のなさ、正確な位置に自信がない。昨日は音の方へと無意識に歩いていたため、覚えてるわけなんかなかった。
(音…そうか、音だ。)
立ち止まり耳を澄ますと、思った通りどこからか僅かな音色が聴こえた。わりと近い。心無しか足を忍ばせ俺は路地を曲がった。音の主は昨日と同じ廃材の上にいた。薄暗い建物影の隙間から、丁度彼の所にだけスポットライトのように陽が差し込んでいた。この旋律は覚えている、昨日の曲だ。
「良い曲だな、この曲あんたが作ったのか?」
驚いた彼の手が止まった。俺の姿を見つけると彼は疎ましそうに立ち上がった。
「あ、待てよ!あんたのギターが聴きたいだけなん…」
彼は俺の声を背に受けながら昨日の袋小路へと消えた。
「何だよ、無視しやがって…!普通聴いて欲しくて路地で弾いてんじゃねえの?なんなんだよあいつ!」
こうなりゃ俺にも意地がある、何としても彼のギターを聴いてやろうと思った。
それから毎日俺はその路地に通った。俺を見ると逃げていた彼も根負けしたのか、俺が姿を見せても気にせずに弾き続ける様になった。最初は遠くから聴いているだけだった彼との距離も日を追うごとに縮まり、気付けば俺は彼の隣に座る事を許されていた。
彼の曲は繊細で儚気で、自分には無かった音の世界を持っていた。俺ならこのギターにこんな音を重ねてみたい、忘れようとしていた感覚が呼び起こされて来る。
でもそれは叶わぬ事、そろそろ現実としてその事を認め、忘れなくては。俺の指はもう音を出せないのだから。 しかし柔らかく滑らかに動く彼の指をみても、嫉妬や憎しみが湧いて来ない事は不思議だった。人がギターを弾いているのを見るのなんてハラが立つ一方だったのに。
俺の事は何も知らない、俺の知らない彼。ただ、俺にギターを聴かせてくれる。すごく安らげる。これは世にいう癒しの力なんだろうか?彼はひょっとしたら糧を失ったおろかな人間の救済に来た天使かなにかで、人目のつかないところでその背に翼を広げ空に消えていってるのかも…なんて、彼の端正な横顔を眺めながらそんな幼稚な考えを浮かべてしまう。でも姿を消してしまうあたり、あながち空想でもないかもよ?なんて。
ふと彼が手を止め俺を見た。年は俺と同じくらいだろうに、汚れをしらない子供のような純粋で真直ぐな視線、なぜだか緊張してしまった。そういえばこうして面と向かって見つめられたのは初めてだ。彼は抱えていたギターを膝からおろすと黙って俺に差し出してきた。
「……?」
弾け、といっているのか?俺に。俺がギターに手を延ばすまで、彼は黙ったままその手を戻そうとはしない。俺は恐る恐る手をのばしギターに触れた。膝にのしかかる懐かしい感触。彼は俺が退き出すのを待っている様子だ。
…弾けるわけがない、…いや、弾けるだろうか?彼の…天使の前ならひょっとして…あるいは…
「……くっ!」
思わずギターを地面に叩き付けそうになった。俺の薬指は弦に触れるどころか不自然に伸びきったままネックを握る事すら出来なかった。 落ち着けこれが現実だ、認めるんだ…天使なんていないんだ。
「乱暴に扱うとこだった…すまん、返す。」
なんとか気を落ち着かせ彼にギターを渡した。その様子を見ていた彼はそれを受け取りながらすまなそうに言った。
「………ごめん、知らなかった…。」
「……いや、いいんだ。」
知らなくて当然だ。すまなそうに俯いた彼に、逆にすまなさを感じてしまう。
「でも、なんで俺がギターを弾くって思った?」
いままで会話らしい会話など一度も交わしていない。俺がギターを弾いていた事なんて、知らなかったはずだ。
「指が…。」
「…指?」
「曲に合わせて指が動いてた。ギター弾くんだなって思った。」
「…そっかぁ……指が…ね。」
皮肉にも必死に認めようとする心とは裏腹に、体がまだ諦めないともがいていたのか。 俺はこの街に来た経緯を話した。元はプロだった事、ギターが弾けなくなった事、耐えきれずにそれまでの全てを捨てて逃げ出した事。話しているうちに目頭が熱くなってきた。多分、今俺は泣いているんだろう…。
「ギター、やめたの?」
「もう無理なんだよ。」
「……そう、かな…好きなんでしょ?ギター。」
彼はそっと俺の手をとった。外見的になんら問題の有るように感じられないその手をじっと見つめる。そして何を思ったのか、開かせたその手を一回り以上小さい自分の右手と重ね合わせた。続けて俺の右手と彼の左手を。
「こういうのは、どう?」
「……?」
不可解な彼の行動に理解不能な俺の前で、彼は脚を組み直すとギターの向きを変え持ち直した。
「やってもいない事、無理なんて言えないんじゃない?」
「……?…………あ!」
ようやく俺は理解した、彼の言わんとしている事を。
「今度会う時はあんたの曲が聴きたいな。」
彼は初めて笑顔を俺に見せた。そしていつものように路地に帰って行くのだ。
……綺麗だった。天使かと思った。いや、天使だった、 …俺、変?
帰り道、俺はこの寂れた街のたった一軒の楽器屋に入った。初めてギターを買いに来た時のような新鮮な胸の高なり、まだ見ぬ未知数の自分の実力に、やたら期待と自信を抱いていた子供だったあの日を思い出す。
俺はギターを一本買った。そう、左利き用のだ。
それから俺はしばらくホテルに隠った。元々人一倍器用ってわけじゃ無かったし、急に左右逆にするって事は簡単な事じゃなかった。うまく弾けないとハラが立つし…本当に、イライラする。そう、曾て弾けていたものなだけに、なおさらだ。
『やってもいない事、無理なんて言えないんじゃない?』…そううだよな…俺、やってないもん弾けなくて当たり前。それが嫌だったらやればいい、やるしかない、そうだよな…。別に不可能な事しようとしてるんじゃないんだからやれば出来んだよ、そう思い直すと不思議と心が落ち着いた。
ふと鏡に目がいった。 向こう側ではちゃんと左手にネックを握った俺、こっち側には右手にネックを握った俺。こんな簡単な事に今まで気付かなかった。いや、気付こうとすらしていなかった。自暴自棄になるばかりで、残された道を探そうともしていなかったんだ。
(なんか俺、ひょっとしてまだいけるんじゃねぇの?)
『希望』なんて言葉を久しぶりに思い出してみた。なんだか可笑しくなって独りで笑った。 もう何日会って無いんだろう。ある程度弾けるようになって、俺の曲聴かせたくって、それまで猛特訓!とか思ってたら1週間近く経ってしまってた。早く、会いたい。彼は何と言うだろう、何も言わないかもしれない、ひょっとしてもう俺の事なんか気にして無いかも?1週間も間があくと何だか不安になってくる。でも、これだけ弾けるようになった姿を見れば、何か一言位言ってくれるだろう。自然と胸が高鳴り歩みが早くなっていた。
いつもの場所に近付くと、彼のギターが聴こえてくる。
「あ…久しぶり。」
意外にも彼の方から声をかけてきた。
「暫く来ないから、もう来ないもんだと…」
「おいおい、今度会う時までに曲弾けるようにっていうから頑張ってたんだが!」
「あれ…俺そんなこと言ったっけ?」
「言った!だから頑張ったの俺!」
「あは、ごめん。うん言ったかも。頑張った、頑張ったね。」
自然に交わされる親し気な会話。今まで気付かなかったけど、彼はなんだか良い香りがする。香水でも付けているのか、それにしても近くで見るとこの男、本当に綺麗だ…。
「…何?」
じっと見つめている俺に彼は小首をかしげて訪ねる。彼のくせなんだろう、その仕種が年に似合わず可愛らしい。
「あ、いや…綺麗なんだなって思って。」
彼は目を丸くした。
「綺麗?俺が?」
俺は口走ってしまってからハッとした。ついつい思ってた事をそのまま口にしてしまったのだ。
「あ…男が綺麗なんて言われて嬉しいわけないか。俺のこと変な奴だって思ったかな…あ、そういう変な趣味じゃないから、違うって!」
まるで弁解する様に妙に慌てる俺を見て彼はくすくす笑った。
「…ううんいいよ、ありがとう。で、弾けるようになった?」
「お…おう。」
俺は話がそれて内心少しホッとした。そして待ってましたとばかりに間新しい相棒をケースから取り出して彼に見せる。
「うわ…すごい、見せて!」
彼はこんなの初めて見たとでも言うように食い入るように俺のギターを眺めまわした。古びたギターを今も大事に使っている様子からして、あんまり裕福な家庭に育ってないのかな…。まぁ、裕福だったら、こんな街にいるわけないのかもしれない。
俺は辿々しい手付きでギターを弾いた。人前で久しぶりに弾いた。彼のギターに合わせて弾くなんてまだ程遠いが、こんな俺のギターを黙って聴いてくれるだけで嬉しかった。
「…1週間でこれだけ弾けるようになるなんて、随分練習した?すごいよ本当!」
「いやぁ…まぁ、うん。」
専門家にギターを誉められた時よりずっと照れくさかった。上手いとか下手とか関係ない。一生懸命した事を誉められるのって、こんなに嬉しい。や、ひょっとしたら彼に誉められたのが嬉しいのかも。名も無いギター弾きに誉められてこんなに嬉しくなる俺、昔なら考えられない。プライドとか自分の地位とか守るのに必死で、こういう感情見失ってたのかも。
プロだったころの俺は、俺の中から消えかけていた。
「……RI…KA?」
ギターに刻まれたロゴに気付いた彼がその字を読み上げた。
「ああ……それ俺の名前。俺、利華っていうんだ。」
ド素人初心者利華、前言撤回。まだプロの面影ぬけず、マイモデル気取りでロゴを入れてしまったのでした…。でもこの位はいいよな?気分だよ気分。
「ふうん、利華…か。」
そういやまだお互い名乗っていなかったんだった。彼の名前を俺はまだ知らない。
「あんたは?」
「俺は…」
その時どこからか誰かの名を呼んでいる男の声が聞こえた。よく聞くと『レイジ』と言っている。その声を聞いた彼の様子が一変した。強張った顔つきになりキョロキョロと落ち着き無く辺りを見回した。
「レイジ…って、あんたの事?」
彼は小さく頷いた。
「そう…麗蒔。麗蒔は俺の商品名……。」
「え?」
「俺、行かなきゃ…じゃ。」
麗蒔はふらりと立ち上がり、そのままいつもの路地に駆け込んだ。
「あ?おい、ちょっと…」
ただならぬ様子に慌てて後をおいかけたが、やはり其処には彼の姿のない行き止まりがあるのみ。
(麗蒔…本当にあいつ何モン…?)
麗蒔の存在は利華のなかではまだ謎だらけだった。