「…もう一度言ってみろ森川…!」
 ボクはその耳を疑った。そして信じたく無かった。
だが森川は落ち着いた口調でもう一度ゆっくりとこう告げた。
「夕貴さん、オレ…騎手辞めます」

新たなるターフへ

 

 以前にも聞いたその言葉だったが、今の夕貴にはその時の何倍も其れが重く感じた。あの時は、愛馬の死に腑抜けになっていた森川の衝動的な言動と行動だった。その時も、夕貴は岡恭一郎と二人で 必死になって森川を立ち直らせようと裏で尽くした。 彼を失いたく無かったから。自分を興奮させる唯一のライバル、自分が認めた唯一の男だったから。
 実際、再び生き甲斐を見つけた森川は、また以前のように夕貴に勝負を挑んで来た。熱い戦いが蘇った。夕貴はそれが嬉しかった。森川だけが、夕貴と対等に渡り合い、鬩ぎあっていたのだ。もはやこの国内に夕貴を熱くさせる程の張り合いのある奴は他にいなくなっていた。最近は、それを見越した岡からも外国でやってみないか?と誘われていた。だが夕貴はそれを断り続けていた。なぜなら、日本にはまだ戦いたい奴がいるから…それなのに。
「なぜだ?…なぜなんだ森川!?」
 マキシマムの子マックスハート、シルフィードの子シルフィードJr、馬の世代が変わっても二人の戦いは変わらず、続いてきた。そしてこれからも、続いていくと思われた。種牡馬になった2頭から、また新たな戦いの種が芽生えようとしている、そんな矢先の事だった。宿命の対決の流れは順調だった…筈なのに、なぜ今の時期になって辞めるなどというのか。
「…ダービーで…負けたからか…?」
「……そうですね…切っ掛けの一つだった事は……確かかもしれません」
 夕貴はギリッと歯を食いしばると、森川につかみかかった。
「ダービーで負けたから…シルフィードJrがマックスハートに負けたから…もう諦めるっていうのか森川!?負けたままで逃げるのか!?どうなんだよ弱虫野郎!?まだやれるんだろう!?お前ならッ!」
 森川は、おそらく予想していただろう夕貴の反応にふぅっと一つ溜息をつくと、困ったように苦笑した。
「…何が…おかしいッ!?」
 そんな森川の行動の一つ一つが、今の夕貴には腹立たしい。
「すいません…オレの能力を高く買って下さってありがとうございます。……だけど今の言葉、一つ訂正させて下さい。」
「何?」
「 シルフィードJrはマックスハートには負けていません、いや…むしろそれ以上、完全に勝っていた…!」
 森川は夕貴の手を振り解くとキッと夕貴を睨み付けた。レースは1着マックスハート、2着シルフィードJrという結果だった。だが、彼の中ではあの勝負は負けではないと言い張った。そう、この目だ、夕貴を熱くさせるその闘志を宿したその目の光はまだ失った訳ではない。
「…だけどオレ達は負けた…いや、オレが負けたんだ。馬は勝っていたのに…オレはあなたの騎手としての腕に負けたんだ…っ」
 負けた事を本当に悔しそうに言う森川に、 彼にまだ勝負へのこだわりがある事を物語る。それなのに、それならば、なぜ?
「 だったら…悔しかったら…かかってこいよ森川ッ!もう一度、何度でも来いッ!」
 夕貴はわざと森川を煽るようにその胸を突き飛ばす。いつも彼が森川を奮い立たせる彼なりの励ましだ。だが今回は違った。森川はすっと目を閉じると首をゆっくり左右に振った。
「オレ…騎手辞めます…もう決めたんです」
「なんでなんだよ森川ぁッ!」
 夕貴の手が森川の頬を殴った。
「………理由を…理由を言えよ…」
「…夕貴さん……」
 森川は打たれた頬に手を当てながら言った。
「……オレは…このままだとあなたを殺してしまう…」
「な…!?」
(ボクを…殺す…?)
「オレがいくら必死に努力しても、これ以上無いというくらいの特訓を詰んで来ても、あなたはいつもオレの前にいる。オレがしている努力と同等の、いや其れ以上の努力を詰んであなたはオレの前にいつもあらわれる。オレはいつもあなたの背中を見つめている……悔しかった。…だけど…このままこんな関係続けていたら、夕貴さんはどんどんオレに触発されて、歯止めの効かない無茶も平気でしてしまうんでしょうね…それにスタ−トから差のあったオレとあなたの距離は、この先も縮まることも追いこす事も出来ない…オレは漸くそれに気付いたんです。」
 必死に追い付こうとする森川と抜かせまいといつも一歩先をいく夕貴。互いに刺激しあい、高めあいながら、破滅へ向かって加速していく危険な関係。必死になればなる程にお互いにその差は変わらず、一定のままだ。今のままでは、お互いただその肉体を闇雲に痛めつけているに過ぎない。
「なん…だよ…それじゃまるで……ッ!」
(辞めるのはボクのせい…だとでも!? )
 夕貴はかつて信頼した騎手が自分のために引退した過去を思い出してしまう。また、だ。自分の知らないところで、大切な何かが、自分のせいで失われてしまう。
(森川…まで?いやだ…もうあんな思いは…たくさんだ…! )
「いえ、それだけじゃないんです」
 森川は続けた。
「TVやニュースで夕貴さんの勝利を見るとオレ、自分の事のように嬉しいんです。理由はよくわかりません、わかりませんでした…最初は。だけどダービーの時に気付いたんです。オレ…2着になって悔しくて…それで、それなのに1着の夕貴さんを見て……嬉しく思ってたんです……おかしいでしょう?」
「森川…?」
「オレ…あなたを越せないと感じた時から、あなたが勝つのを見るのが…堪らなく嬉しいんです。オレの越せなかった夕貴さんが…誰にも越されないのを見るのが」
 森川は矛盾した感情を夕貴に告げた。負けて悔しいのに、夕貴が勝つのは嬉しいのだと。ライバルなのに?敵なのに?
「……わかんない…わかんないよ森川…何が言いたいんだ?何がしたいんだよ森川?」
 夕貴は混乱したように頭を振った。夕貴は森川と戦えて、それで良かった。マキシマムとシルフィードの血を対決させて、それだけで良かった。興奮した。熱くなった。森川は其れでは…ダメなのか?
「夕貴さん…オレ、来週からアメリカに行きます。」
「!?」
 森川は突然意外な事を口走った。
「岡さんのアメリカのファームで育成者として働こうと思っているんです。」
「育成者…だって?」
 騎手という競馬界の花形の地位を捨て、日本のトップクラスの地位まで登り詰めた男が、地味な裏方の育成者になるというのだ。
「オレ…馬が好きなんです。馬に無理をさせて走らせるんじゃ無く、馬と接するのが好きなんです。だけどこれは…騎手にとって邪魔な感情になる時もある。馬を、最高の出来に仕上げて、何にも負けない自信さえあるのに、その能力を最大に引き出してやるあと一歩の無理を馬にさせることがオレには出来ない…夕貴さん、あなたは…あなたも馬を愛する人でありながら、あなたにはそれが出来る。それがオレにはどうしてもこえられないあなたとの差なんだ」
 日本ダービーでのラストの直線で、森川は後一歩夕貴のマックスハートに追いつけず、負けた。あの時もう少し無茶を強いる事ができれば、勝負には勝っていただろう。だけど森川は一瞬、馬の脚の心配をしてしまい、それが出来なかった。
 あの時シルフィードJrに騎乗していたのが逆に夕貴だったならばムチを振っただろう、そして…勝っていたんだろう。もしそれが馬を傷つける結果になったとしたら、夕貴は人目はばからず全身で悲しみを露にし馬に詫びるだろう。寝ずに付きっきりで看病するだろう。夕貴のかつての愛馬マキシマムの時がそうだったように。優しさと厳しさの両方を馬に注げる男だから。
 だけど夕貴はムチを入れた自分を後悔はしても、否定はしないだろう…勝つ為にはそうするしか方法がない事がわかっていたから。
「…………逃げるのかよ森川…」
「…そう思われてしまいますよね…やっぱり…」
 森川はまた苦笑した。今までは馬を愛する事でその強さを発揮してきた。だがそれだけではもう…この人には、夕貴には勝てない。馬を愛する事と、競走馬として冷静に酷使する事の両方を備えたこの人には。どんなに愛して慈しんでいても、馬はペットではない。これはレースだ、ここは『競馬界』なのだ。
「オレ……新たな夢が、目標が出来ているんです、もうずっと前から……岡さんに相談して、そして…もうすぐそれが実現しそうなんです…!」
 この世界に 非情だと感じる瞬間もあった。だけど森川は、その競馬界が…やっぱり好きなのだ。この世界で見つけた、騎手としての自分とは違ったもう一つの自分の生き方。馬を愛し、その能力を引き出してやる誰にも負けない自分の力。その馬を『最高』の状態で走らせてやれるその環境。
「ゆ…め?」
「はい…」
 森川は突然、夕貴の瞳を見つめるとその足下に膝まづき、土下座した。
「なッ…森川!?」
「お願いです…夕貴さん、……あなたの馬を、オレに育てさせて下さい…!!」
「−−−!!」
 森川は地面に頭を擦り付け、夕貴の足下に伏した。
「……なん…」
 急な森川の行動と言動に只々絶句する夕貴。
「これはオレの勝手な我侭です、でもッ…でもオレは…」
 森川は顔を上げ、夕貴の顔を見つめた。
(本気で…言ってるのか…?)
 真剣なその表情に彼がどれ程悩んだ上の結果なのかを夕貴にも感じとれてしまう。 
「夕貴さんを抜くのはオレだ…オレの筈だった!でもこのままじゃ抜けない…今のままじゃなにも…変わらないッ、オレはオレが抜くはずだった夕貴さんを、オレの抜けなかった夕貴さんを…誰にも抜かせたくないッ…!!」
「森…川…」
 彼のプライドと、勝利への執念。それはいつからか、形と方向性を変えていた。その激しい闘志はそのままに、その対象が変わっていたのだ。自分が最高と認めた其れを、理不尽な背比べで大切な何かが壊れてしまう前に。
「オレは最高の馬を育てる!誰にも負けない最高の奴を…!オレにはそれが出来る自信があるんだ!だから…だから夕貴さん、その馬はどうしてもあなたに乗って欲しいッ!」
「ボ…クが、お前の馬に…?」
「オレにとってあなたは最高の騎手だ、オレの抜けなかった尊敬する騎手なんだ!オレの馬は誰にも抜かせない、オレの抜けなかった夕貴さんを誰にも抜かせたくない!」
 森川はもう一度深く頭を下げた。
「お願いします、夕貴さん…!逃げじゃない、逃げてるんじゃ無い、これはオレの…第2の戦場(ターフ)なんだ…!」
「………」
 あまりの気迫に夕貴は何も言えなくなってしまう。
「夕貴さん…どうかオレと、オレと一緒にアメリカに渡って下さい…!オレを…あなたのパートナーにして下さいッ!!」
「……森…川…」
 突然の事だった。昨日までは敵同士だと思っていた森川。今朝まで、次のレースではどうやってあいつと戦おうか、なんて考えていた。それが昼飯を終えたら…こんな展開になるなんて。
 勝手な奴だ。
 我侭な奴だ。
 …面白い奴だよ森川、お前って。
「………………フン…わかったよ森川…」
 夕貴はいつものように小憎らしく鼻で笑うとそう答えた。日本にはもう敵はいない。…いや、いなくなってしまった。この国にこだわる理由なんてもうなくなったんだ。
「 夕貴さん…それじゃあ…」
「いつまで床舐めてんだよ?みっともない、さっさと立てよ。そんなんじゃボクのパートナーとして相応しく無いぞ?」
 夕貴は森川に手を差し出し、ふ…と優し気な笑みを瞳に零した。
「あ…夕貴さん…ありがとうございます!」
 森川はその手を固く握ると、その力を借り立ち上がった。
「…イイ馬育てろよ、ボクが絶対勝たせてやる。」
「は…はいッ!」
「よろしく頼むぜ…相棒」
 少し照れ臭そうに夕貴は森川にそう声をかけると、振り返り歩き出した。
「こ…こちらこそよろしくお願いしますッ!!」
 森川は夕貴に深く一礼し、その後を急いで追い掛けた。

 かつて別々の道を歩いていた男達は、今ここに一つの道を共に歩き始めようとしていた。
 新たなる戦場を目指して…

 

 

翌週、ボクはアメリカに渡った。
これから、見た事も無い強豪が溢れる世界に挑戦しようとしている。
だけどそんなの、なんてことない。
出来るさボクなら…
いや、
『ボク達』なら!

end

 

 森川 駿が騎手を辞め、夕貴 潤のサポートとして手腕を振うようになるまで、そう決心するまでの魅夜的推測です。森川とシルフィードのコンビは確かに最強だったけど、やっぱり馬の能力が同じだった場合、騎手としての能力的には森川は夕貴に勝つ事は出来ないんじゃないかと思うわけでして、その事についての葛藤と踏ん切りを書いてみたかったんですね。
 実際はどういう経緯だったかはわからないですけど…夕貴至上主義の魅夜としてはこうなってしまいました(笑)

じつはダークな続きがあったりなかったり(苦)……見ちゃう?

2002.07.11

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