断罪8






「おかえりなさいアルスさん、イクシアさん」
 屋敷に戻るなり降って来たその声に、イクシアの表情が少し硬くなる。
「お腹空いてるでしょう?御夕飯作って待っていたんですよ!さぁさぁ御飯にしましょう!」
 エプロン姿の少女はパタパタとスリッパを鳴らしながら二人を出迎えた。ふわりと美味しそうな香りが彼女と共に玄関に立つ二人に届いてくる。
「…………」
 だが、早々に食事という気分ではないことはアルスもイクシアも同じだった。
「あ…」
 無言でイクシアを抱きかかえたまま立っているアルスを見て、アルミネはようやく何か様子がおかしいことに気付いたらしく、声のトーンを押さえる。
「あの……何か、あったんですか?」
 よかれと思って元気に出迎えたのだが、場違いな事をしてしまったかとアルミネは戸惑っている。アルスは口元にそっと笑みを浮かべると、アルミネに優しく言った。
「ありがとうアルミネ、食事はもう少し後にするよ。イクシアは…少し疲れているんだ」
 自力で歩いて帰ってきていない時点で、それが普通の状態ではないことは明白だった。
「怪我…なさってるんですか?あの、私が治癒して…」
「いいよ」
 アルミネの言葉を遮ったのはイクシアだ。
「でも…」
「いいんだ…アルスが大体治してくれたからね」
 そういうとイクシアは自分を抱えるアルスに腕をまわし、その頬にそっと口付けた。
「こ…こらイクシア!?」
「ふふ…別にいいじゃないか」
 顔を真っ赤にしたアルスにイクシアも頬を染めて笑うと、アルスの肩に顔を埋めた。
「あ…えっと、そういうわけで、ちょっと部屋にいって着替えてくるよ。落着いたらそのあと二人でいくから、ね?」
「…………え?あ、はい…」
 暫し固まったように呆然としていたアルミネは、アルスに声をかけられ我に帰ったように返事をした。
「………」
 そして二階にあがっていく二人の後ろ姿を、アルミネは天使らしからぬ表情で黙って見送っていた。

「イクシア、何もアルミネの前であんな…」
 部屋に入るなり、アルスは顔を真っ赤にしたままで言った。
「何か、不都合でもある?」
 悪戯っぽく微笑み、イクシアは満足そうにもう一度アルスに口付ける。
「不都合って…そうじゃなくて、びっくりしちゃうだろ?アルミネが!」
「…本当にそれだけ?アルミネに知られたら困る、っていうんじゃなく?」
 逆に問いつめるようにイクシアに聞かれて、アルスは困ったように眉を潜める。そう、イクシアはわざとアルミネの前でアルスにキスをしたのだ。
「ち、違うよ!だってアルミネは…その、僕達の事…あの、僕達の関係の事、知ってるんだからね?」
「そう、なんだ…?」
 それでもまだ何か疑いの色を残すイクシアに、アルスは言葉を続ける。
「イクシア…、アルミネとはそういうんじゃないんだって!妹みたいで姉みたいで母親みたいで…なんていうか、その、うまくいえないけどそういう感じなんだから。君が思ってるような関係じゃ無いから!」
 まるで弁解でもするみたいに早口でそう言ったアルスの言葉を聞き終えると、イクシアはゆっくりと口を開いた。
「…ふぅん…でも……アルミネはどうかな?」
「え?」
 イクシアは少し意地悪な口調でアルスに問いかけた。
「はたして彼女の方は……どうなのかな」
「か、彼女は天使だよ?人間の俺にそんな…そんな感情はないよ!」
 天使には人間のような恋愛感情はない。人間に対して無償の愛を注ぐ事はあっても、一人の人間に執着し、まして人間の男女間のような関係を望むなどと言う事はありえない…はずだ。
「言い切れるの?」
「それは…」
 そのはずなのだ、彼女が『天使』である以上。
「僕は…融機人だよ。でも、君が好き」
「え?う…ん?」
「だから天使である彼女が君を好きでも、何の疑問もないよ」
「………」
 たとえ種族が違っても、住む世界が違っても、好きだという感情には関係など無いとイクシアは身をもって知っている。だから、不安になる。
「ねぇアルス」
 だから、確認したい。
「君はアルミネのこと、恋愛感情で見て無いんだろう?
……じゃあさ…」
「う…ん?」
 そしてまた、イクシアはアルスを困らせる。
「もし…もしもだよ。僕とアルミネ、どっちか一人しか助けられないとしたら…君はどっちを助ける?」
「え!? そ…れはっ…!」
 もう我慢をしない、感情を殺さない、自分に嘘をつかない。そう決めたイクシアは、意地悪な程の質問をアルスに投げかける。それでアルスが返答に困っても止める事は無く、自分の納得がいくまで答えを求める。人らしく、我を貫く。
 愛されてる事を確認したい。自覚したい。不安だから。
「勘弁してくれ…イクシア。それより早く風呂に入ってゆっくりと…」
「まだ答えを聞いて無いよアルス」

 話をそらそうとするアルスにイクシアは視線をそらさずに問いつめる。
「ねぇアルス…どっち?」
「イクシア…そんな事は」
「どっちなんだアルス?」
「………」
 アルスは困り果てたように溜息をつくと、急に真顔になりイクシアにまっすぐ視線を返し、そして、言った。
「…………君、だ」
「!」
 そして言葉とともにアルスの唇がイクシアにあわされる。このままはぐらかされる事を予想していたのか、アルスが急に真面目に答えた事にイクシアは驚く。
「君だよ、イクシア」
 もう一度そう優しく囁いて抱きしめて来るアルス。
「………」
 望む答えが帰って来たはずなのに、イクシアは嬉しそうな素振りも見せずに伏目がちに俯き、言った。
「……君は…嘘つきだ」
「…どうして?」
「君が…アルミネを見殺しにする筈はない」
 彼がアルミネを見捨てるわけなんかない。人間が天使を選ばないわけなんかない。また融機人を踊らせる為の都合の良い嘘に決まっている…そうは思いたく無くても、思ってしまうイクシアの心。猜疑心に苛まれた傷だらけの心。
「…嘘じゃ無いよ?だって、アルミネも…助けるんだから」
「!?」
 また、予想外の答えにイクシアの瞳が見開かれる。
「君を助ける…そして、アルミネも助ける。俺はどっちも助ける!」
「な……」
 まるで意味のない自信に満ちた澄んだ瞳で、アルスは用意された解答には無い答えをつくり出す。
「そんなのは…答えになっていないよ!?」
「答えだよ、俺は助けるんだから!君も、アルミネも、絶対助けてみせる!」
 瞳の奥に芯の強い光を携えながら、アルスは真剣にそう言っていた。
 今度はイクシアが溜息をつく。
「君は…猾いよ」
 答えはイエスかノーで、0か10しかないはずなのに、勝手に真ん中をつくり出してしまう。イクシアには自分には無い人間特有のその思考回路が理解できない。中途半端で曖昧で、不確かで確証もなにもなくて…それなのに、危機迫る程の自信に満ちた説得力。だがきっと彼は本当にそんな状況に陥ったら、実際にそうしようとするのだろう。
「そんな答えじゃ…不安なんだよ…」
 イクシアはまた、溜息をつく。
 愛されている自覚が欲しい。アルミネよりも大切なのだと、そういって欲しいのに。アルスはそうは言ってくれない。
「イクシア…」
 そんなイクシアの心意に気付いたのか、項垂れるように肩を落としているイクシアの頬にアルスの手が伸び、そっと自分の視線にあわさせる。そして、口付け。あわせるだけの軽いキスではなく、熱く、痺れるような、濃厚な、気持ちのこもったディープキス。
「…君にだけだよ、こんなことをするのは」
「んっ…」
 反射的に伏せた瞼が震え、イクシアの睫が揺らめく。
「愛してるよ…イクシア、愛してる」
「…アル…スっ…」
 まるでイクシアの心を安心させるように、甘い吐息で何度もアルスは繰り返した。
「こんな事を言うのは…君にだけなんだからね…?」
 アルミネにはそんな言葉言った事など無い。もちろんキスだってしたこともない。そんな肉体的な関係をアルミネに求めた事など一度も無かった。こんな行為を求めるのは、イクシアにだけ。それだけは紛れも無い事実。
「愛してる、イクシア」
 それはとても特別な言葉、特別な感情、自分だけに向けられるアルスの感情。アルミネではなく、自分にだけ。
 イクシアにとってアルミネよりも大切にされていると感じられる魔法のような言葉。
「嬉しい…アルス…」  
 イクシアはようやく口元に安心したような笑みを浮かべる と、瞬きの瞬間に雫を一粒だけ零した。
「…さぁ、少し横になった方がいいよイクシア」
 アルスはもう一度軽くイクシアの頬に口付けると、イクシアをふわりとベッドに降ろした。
「ん…ぅ」
 丁寧に扱ったつもりではあったが、身体に負担が掛かったのかイクシアは少し辛そうに呻いた。
「大丈夫?」
「うん…平気」
 傷は大方アルスの魔法で治癒できたが、連日数えきれない程の人数に凌辱を受けたイクシアの身体は、目に見えない疲労で軋みをあげている。自力で身体をおこすのでさえ随分と辛そうだ。
「そんな顔しないでアルス。大丈夫だから…僕、慣れてるから…」
 心配そうに見つめるアルスの顔がどこか泣きそうで、イクシアはあやすように微笑んだ。
「それより…身体を洗いたいな」
「あ、そう…だね?」
 傷は治す事が出来た、だが体中にこびりついた跡はそのままだったのだ。臭気すら放つ身体を、せめて表向きは綺麗にしたいとイクシアは思った。
「今お湯の用意してくるから、少し待ってて」
「うん」
 アルスはイクシアに優しくキスを返すと、バスルームに入っていった。


 

 

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2007.10.20

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