失楽園
act:0 愛と野望と欲望と

 

「クラウレ」
「はい」
「セイロンというのは…あの赤い髪の御使いだな?」
その名前に、クラウレの心情が僅かに乱れる。
「…はい」
だが、すぐにその乱れを覚まし、冷静な口調でそれに答えた。
「龍人の若君だそうじゃないか…」
「はい」
今度の返事には、もう迷いはない。
「フ…何故そのような者がこんな所にいるのやら…」

ギアンはどこか馬鹿にしたように苦笑し、言葉を吐き捨てる。
何故…確かに、そうかもしれない。
本来こんな所で人間達と共に戦列に立つような身分ではないはずだ。
御使い、などという誰かに使えるような立場ではないはずだ。
彼をそうさせたのは、それだけの理由があったから。
クラウレはその理由を知っている故、彼の行動に疑問はないが、
傍から見れば、何故そんな事をしているのか疑問を抱くのも当然かと思う。
「彼奴は…セイロンは先代守護竜の客人としてラウスブルグに現れ、
その際に先代に請われて御使いに…」
「そんなことを聞いているんじゃないんだよ、クラウレ?」

最後まで聞かず、ギアンは冷めた声で割って入った。
「そんなことは、知っている」
頭の働くこの男、そのような敵の情報などすでに熟知していたのだ。
どのように、いつ御使いになったのか。
おそらくは、セイロンと先代の内密な関係のことも。
「は…申しわけございません」
クラウレの説明など、不用だった。
「そうではなく…」
ギアンの言っているのは、何故彼が御使いになったか、などではなかった。
「生まれながらに恵まれ…もてはやされ、慕われ敬われ寵愛され…そのような者が…」
ギアンの眉間に、憎しげに皺が寄せられる。
「なぜ 私の前に平気で存在しているのだ?」
「…………」
そんなものが、自分と同じ世界に存在しているということの拒絶。
存在の、否定。
「虫酸が走るよ」
キエテシマエ。
「ギアン様…」
ギアンとは似ても似つかないような、まるで正反対のその生い立ち。
生まれながらに監禁され、凌辱を受け、その為に生かされ続け
生きたまま殺され続けたギアン・クラストフ。
名門の子息でありながら、敬われた事も慕われた事も、無い。
彼は何も持っていない。
すべてを自らの手で壊し、奪い、築き上げる今日に至るまで。
それを知っているクラウレには、答える言葉が見つからない。
「クラウレ」
クラウレがかける声よりも先に、ギアンがクラウレの名を呼んだ。
「あれを…ここにつれてきてくれないか?」
「何をおっしゃいます…?」
妖しげな赤い瞳が、尚一層の妖しさを放ち揺らめく。
「そして…私の目の前で、あれを壊してくれないか?」
「!」
速答をできずにいるクラウレに、ギアンが優しい声と妖しい瞳で問いかける。
「…してくれるね?クラウレ」
「………」
クラウレを魅了するその瞳。
「…御心のままに」
自然、クラウレの口から心決まらぬままの返答が放たれる。
「君は期待通りの男だよ、クラウレ」
そういってクラウレの唇に噛むように口付けた。
もう引き返せない、裏切りの契り。

「楽しみにしているよ」
ギアンは薄笑いを浮かべクラウレに背を向け城の奥へと去っていく。
「ギアン様…」
わかっているのだ。
彼が自分を利用価値のある道具の一つとしか思っていない事など。
だが…愛おしく、狂おしい程、護りたい。
可哀相な、あのお方を。
すべてを…捨ててでも。
「…セイ……ロン……」
口から音に出た、かつて愛でた男の名前。
あの男はまだ自分を慕っているのだろうか。
あの男はまだ自分を待っているのだろうか。
あの男はまだ自分を信じているのだろうか。
「セイロン…」
もう一度、名を呼んだ。
「オレは………!」
何かを断ち切るように壁を拳で殴りつけ、
クラウレは愛用の槍を手に取り、意を決して空に舞い上がる。


もう、戻れない。




→act:1



2007.02.05

戻る