失楽園
act:
14 眠れる龍

 



「はぁ…はぁ…」
 響く息づかい。突然の騒音からようやく静けさを取り戻した森の中で、クラウレはその人を腕に抱いていた。動かぬその人を。
 殆ど役目を成さぬ翼で人ふたりを支える事ままならず、浮かぬ翼を広げ気休め程度の空気抵抗。半ば落下するような形で森に飛び込んだ。多少の舵をたよりに茂み深き所を選び突入するも、張り出した枝は凶器となり襲い掛かってきた。抱いた身体に傷つけまいと己の身で総べて受け止め、ようやく地に脚を付けた時、クラウレの身体は傷だらけになっていた。だが、腕の中のその人には、一つの傷が増える事も許さなかったのだ。
「セイロン…」
 龍は、その瞳を開かない。
 角を奪った瞬間に邪悪な光り消え、輝きを取り戻したかに見えたその瞳は、龍の力による生命力を失い再び閉ざされてしまった。これだけの落下の衝撃の中でも、何事も無かったかのように。
 眠っているのか、あるいは…。
「………ッ!」
 クラウレは手にした角をふたたび喰わえさせようとして、その手を押し止める。
 そうすれば、たしかにその瞳は再び開かれるかもしれない。だが、それはセイロンではない。そのような生命をセイロンは望んでなどいないのだから。 そんなやり方でこの瞳を開かせてはいけない。
 クラウレは力を振り絞り、よろける足で立ち上がる。…もう、この翼は使い物にならない。
「…は…はやく……イスルギのもとに……」
 頼みの綱は、もうそれだけだった。一刻も速く、それだけを…。

「!?」

 凄まじい殺気を感じた。
 草の葉の揺れる音がした。
 視界が、人影を捕えた。
 それは、どれも同時といっていいくらいだった。クラウレの喉元には、鋭い刃の切っ先がピタリと押しあてられていた。
「…侍……」
 それはクラウレが先に一度対峙したシルターンの侍、シンゲンの刃だった。
「…一言、声を発する猶予をあげましょう」
 シンゲンは低い声で、恐ろしい程に冷静な口調で言う。
「その人は、生きているんですか?」
 その問いは、適確すぎて。
「…………」
 クラウレは、答えられない。
「それは…ッ」
「…なるほど」
 何か言いかけようとしたクラウレの喉に、熱い痛みが走る。
「がッ…!」
 ためらいなく振られた刃は、クラウレの喉元を切り裂いた。 クラウレの首筋から、赤い飛沫が飛び散る。
「…速答できないと言う訳ですか!」
 そして続けざまに、刃が唸る。狙いは左胸。
 血飛沫が、飛んだ。
「…………!!」
 シンゲンの眉がぴくりと歪む。予想外で、フに落ちないというように。
「なぜ…」
 疑問が浮かぶ。振り降ろした刃を、その身体に受け止めたその男に。
「…受けた…?」
 刃はシンゲンの狙ったその箇所を適確に貫いていた。寸分の狂いも無く。それは、クラウレがシンゲンの刃を正面から見据えながら、一歩も退かなかった証。
「……それで、許されたつもりか?」
 口元を歪めながら、シンゲンは刃を引いた。飲み込んでいたその左胸から、赤い鮮血が迸る。彼の人を抱えたままに、クラウレの膝ががくりと折れ、地に着いた。
 クラウレは、避けなかった。シンゲンの刃の軌道をわかっていながら、あえてその身に受け止めたのだ。
「…れ…は……」
 喉から空気と血を零しながら、クラウレは呻く。
「…の……撃を………全…避…け…余力……無…」
「…そうでしょうねぇ」
 どこで何と戦ったのかは知らないが、 既にシンゲンと会う前からクラウレはボロボロだった。通常の戦闘能力より遥かに劣ることは一目でわかる。だがこの男ぐらいになれば、完全にとまではいかなくとも、急所を避けるくらいに躱す事は容易にできたはずだ。
 だから、ずらした。
 僅かに攻撃が躱されることを予測し、シンゲンはわざと急所からそらした箇所をねらった。避ける方角が合えば、一撃でしとめられるように。
 それが…狙い済ましたように、わずかに急所からそれたその場所へと、まっすぐに刃は突き刺さった。おかげで、一撃ではしとめる事かなわなかったというわけだ。
「何故、受けた」
 シンゲンはもう一度先程の問いを口にした。
「こ…以上……傷…つ…訳…に………ぬ」
 ごぼごぼと溢れ出す血が、クラウレの言葉を遮る。
 躱そうとすれば…当たったかもしれない、腕の中のこの人に。今の自分の運動能力は、自分でも驚く程に低下している事をクラウレは自覚していたのだ。自分が動かそうとしている脳からの命令が、果たして正確に四肢を動かすかは定かでは無い。予想外の角度に身体がよろけるかもしれなかった。その可能性は0ではなかったのだ。
 だがこの男は適確に自分だけを狙ってくるだろう。それならば、腕の中のこの人に傷をつけさせない方法は簡単。動かなければ、それだけで。
「戯言を…」
 クラウレの言いたい事は伝わったのだろう。シンゲンの口元が歪んだ笑みを造る。
 言いたい事が伝わっただけに…腹立たしいのだ。
「貴様が…その人をそこまでーー!!!」
 今更何をいうか。
 今更何を後悔するか。
 今更、何を偽善ぶるか。
 そんなのは認めない。許さない。その人をそこまで追い詰めておきながら、今更何を護るような素振りをとるというのか。そうして受けた刃によって、裁かれた気分にでもなっているというのか。
 認めない。許さない。
 この刃は裁く為に向けられたものではないという事を、思い知るがいい。
「全て貴様のせいだろうがぁッ!!!」
 シンゲンの刃が再び掲げられた。

「!」

 刃が止まる。
「…………なんのつもりだ」
 突如目の前に差し出された、眠る龍。シンゲンの刃はその人を傷つける事なく、ぴたりとその動き止めた。
「貴様…」
 セイロンを盾にすれば刃が止まるとでも思ったのか、クラウレは大事そうに抱いて居たその人を、シンゲンの刃の前に差し出して居たのだ。
 シンゲンは刃を握り直し角度変え、三たび刃を構える。
「そこまで…卑怯な男とは思ーーー」
「…ス…ギ……」
「ーー!?」
 聞き覚えのある単語が聞こえた気がして、シンゲンは言葉を止める。その言葉は、その男の口から出るには不似合いで。
「…イス……ル…ギ…」
 絞り出された短い単語は、二度目にはハッキリとききとれた。
「な…に…?」
 逆だった。
 クラウレはセイロンを盾にすれば刃が止まると思ったのではない。こうすれば刃が止まるとわかっていたから、セイロンを差し出したのだ。この男と、話をする為に。
 震えながら差し出された腕は、捧げるようにシンゲンに向けられる。それはまるで、受け取れ、と言っているようで。
「………」
 シンゲンは差し出されたその人にすぐには腕を伸ばさず、右手に刀を構えたままゆっくりと左腕だけを伸ばした。何かクラウレが不穏な行動をとれば、すぐにでもその首を刈れるようにと。
 信用できなかった。
 罠かもしれない。策かもしれない。大事そうに抱えたその人を、そうも簡単に渡すものだろうか?と。だがそんなシンゲンの警戒に反し、クラウレはその手を差し出したまま動かない。
 伸ばしたシンゲンの指先が、龍に触れる。
「…!」
 …冷たい。
 シンゲンの腕が受け取る意志を見せると、クラウレの右腕が離れ、そして、左腕が離される。 シンゲンの左腕にずしりと重みがかかった。ずっと探し求め奔走し続けた、その人の重み。無言の帰還。
「……若…」
 ようやく腕に帰ったその人を抱き寄せようとシンゲンは腕を引いた。受け止めたその顔を確認したくて。眠っているのか…それとも…。
 そんな一瞬の隙が出来たからだったろうか。突然、戻しかけた腕を引き止めるように掴まれた。
「!!」
 不意を突かれ接触を許した事に少なからず心乱れ、シンゲンの右腕が反射的に振り降ろされる。
「な…っ!」
 肉を斬った感触はなかった。目の前には、羽毛が舞い散っている。数秒前に狙っていた其所に、憎むべき者の首はもうなかったのだ。実際の首は、もっとずっと低い所に移動していた。
「イス……ギ…に…」
「!?」
 倒れ込みながら必死にシンゲンの腕を掴んだその手は、シンゲンの掌に何かを捩じ込んだ。
「た…………の……む………っ…」
 その言葉を最後に、ドサリ、と音がして男は地に倒れた。殺気もなければ、動きもしない。もとより、この男から殺気は感じられてはいなかった。その事は理解していながらも、シンゲンは今までその警戒を緩める事はなかった。それだけ、この男に対する強い敵対心がそうさせていた。
 だが今度こそ完全に、倒れたのだ。
「…………」
 右手の刀を握り直し、シンゲンは地に伏した男に向け再び振りあげる。刃をその男の首の裏にまっすぐに突き立てようとして…その手を止めた。
「………」
 何があったのかは理解し難いが、この男はここまで傷付きながらセイロンを地上に連れてきた。この男を許したわけでは無い。許せるわけが無い。だがその事実だけは、認めよう。
「……どうせ尽きる灯火…」
 この男を斬ったところで、状況は何も変わらない。ならばそれは無駄な事。シンゲンの刀が、ようやく鞘に戻される。そして腕の中のその人を、ようやく両手でしっかりと抱きしめた。
「若……若…?…セイロン?」
 冷たいその人の顔を覗き込み、名を呼んだ。開かない瞼、動かない口元。ようやくこの手に抱き締める事ができたというのに、眠り続ける赤き龍。美しいその姿は、まるで絵画のような静止画だった。今にも動きそうな程生々しいのに…決して動かない。
「まさか本当に…」
 シンゲンはセイロンの胸に手を当てる。
 ……トクン。
「!」
 小さな鼓動を感じた。
「…良かっ…」
 だが、それきり拍動は無い。
「若…!」
 トクン…。
「!」
 忘れた頃に、もう一度。
 それはもう、いつ消えてもおかしく無い不規則なリズム。
「は……」
 シンゲンの鼓動が早まる。
「冗…談……?」
 このままでは…死ぬ?この人が?
「御冗談…でしょう!?」
 どうしよう。
 どうしよう?
 どうしよう!?
「ダメです…!嫌だ、そんな事は…!」
 あまりにも沢山の血と死を見てきた男は、たった一つの尽きようとしている命に、こうも取り乱し冷静さを見失う。
 この人が死ぬなど、それを目の当たりにするなど、想像もできない。今のこの状況に面してでさえ、出来ないのだ。この人の目の前で己が死ぬ事はあっても、この人が目の前で死ぬ事など。
「……!」 
 ふと思いだしたように、シンゲンは左手の掌を開いた。そこには…角が、あった。少し輝きの失せた、血で褪せた角。
「…これを……イスルギ様に…?」
 そうすれば、活路が開けるとでも言いたかったのだろうか。これをイスルギに届ければどうにかなるとでもいう確証が、あの男にはあったのだろうか。
 確かに、イスルギは龍神。鬼妖界においては絶大な力を持つ絶対的存在だ。龍神イスルギならば今のセイロンを再生できるのではないかと鬼妖界出身のシンゲンも思う。
 だが、だからそれがどうだというのだ。
「…っ…!」
 ギリ…と歯噛みしシンゲンはクラウレを睨み付ける。
「くそ…、くそぉッ
!!何が、頼むだ…ふざけるな!」
 それがわかっていたところで、どうしろというのだ。龍神になど、会い方も知らない。どこに居るかもしらない。第一、ここはリィンバウム。その神は…この世界にはいないではないか。
「こんな状態で一体どうしろと…!!」
 無力な自分に、ただの人間の自分に。故郷に帰る術もなく、帰ろうとする意志すらなく、そんな自分に…こんな大事な事を無理矢理押し付け、責任を押し付け… ただ、己の無力さをまたしても叩き付けられる羽目になってしまった。時間だけが流れ、刻限だけが迫る。
「自分一人に一体何がーーーッ…」
 そう声にして、シンゲンはハッとした。
「!!」
 一人じゃ無い。
「そ…うだ…」
 シンゲンはセイロンの身体を強く抱き締める。
「…まだだ…、…待って下さい…まだ、もう少し…」
 たしかに一人ではどうにも出来ないかもしれない、だが…一人じゃ無いのだ、自分は。己一人で足掻くのでは無い、共に足掻いてくれる…仲間がいる。
「だからもう少し…貴方も、足掻いていて下さい…!」
 冷たくなりつつ有るその身体を強く抱き、シンゲンは森を駆け抜ける。



 
図々しくも己が背を向けたその人達を、シンゲンは初めて…仲間と認め、縋った。




→act:15



2007.12.08

 

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