失楽園
act:
15 再生

 



「はぁ…はぁ…」
 響く息づかい。
 山を駆け下り林を抜け、道無き道をかき分けながら最短距離を街に向かって。抱えたその人に振動が負担にならないように気をつかいながら、シンゲンはひたすらに脚を速めた。僅かな拍動を仲間のもとまで、なんとしてでも繋ぐ為に。体温の低下を少しでも押さえようと、自分の羽織で包んだその人をしっかりと抱き己の胸に密着させ、走り続ける。
「ーーッ!」
 シンゲンの脚が突如とまった。
 目の前の林が急に開けたと思うと、そこには視界一面に水面が拡がっていたのだ。
「くそ…!」
 『ドブ池』とも揶揄される、トレイユ近郊の泉。その存在を忘れていた。宿まで直線上に突っ切れば、ここに突き当たってしまう事はよく考えればわかる事だったのに。
「こんな時に…」
 一刻でも時間がおしいというのに、迂回をしなければならない。恨めしく水面を睨み、シンゲンは水面を右に進路を取る。
「………」
 駆け出そうとして、シンゲンはまた脚をとめた。ここまでくれば、宿まであと僅か。もう一度、そっとセイロンの胸に手を当てる。
  …………トクン…。
 安堵を誘う振動が僅かに手に伝わった。たしかに弱く不規則だが、まだ動いている。きっと迂回しても間に合う…そう信じる。そう己に信じ込ませているが故に、ある思いがシンゲンの心情を揺さぶるのだ。
「…………」
 シンゲンは腕の中の人を見つめた。
 折られた両角。痣だらけの顔と身体。全身にこびり着いた凌辱の白い残骸。血まみれの…其処。
 この人のこんな姿を、仲間の前に晒す事がシンゲンには心苦しく口惜しい。いつも気高く美しかったその人をここまで貶めた輩に煮えくり返る程の腹立たしさを感じると同時に、この姿を仲間の前に晒していいものか、と。たとえ衣で身体を覆っていたとしても、そのうけた行為の痕は隠し切れない。この姿を見れば皆理解するだろう、何をされたのかなど。
 きっと仲間達は何も言わない。何も言わず何も問わず、黙って傷を癒し今までと同じように接しようとする。だが、この人はどうなのだろう。プライド高きこの人は、仲間の前でこのような己の様を晒す事を良しとするのだろうか?
 このような迷いは、この人の命の前では本当に些細な事かもしれない。いや、些細な事なのだ。きっとこの人も、今までどおりに皆と接する事のできる人。そんな小さな器の方ではないのだから、こんな事を心配する必要などない。迷う事無く走り出せばいい、それだけのはずなのに。
(自分は…なんと小さい男だ)
 結局は、この人の為を思っているのでは無い事にシンゲンは気付いてしまう。
 自分だ。自分が嫌なのだ。
 この人のこんな姿を誰か他の者にみられることを、自分が激しく拒絶しているのだ。セイロンの為でも、仲間の為でも無い。自分の我侭な感情が、この姿をこのまま一目に晒したく無いと拒んでいるのだ。それは独占欲にも似た一方的な感情。この人の命の重さと天秤にかけるなど烏滸がましいにも程がある。
「……一寸…」
 シンゲンはその脚を進めることが出来ず、その場に屈みこんだ。急がねばならない事は重々承知。だが、この感情を押さえ込めないちっぽけな器の己との葛藤の結果による妥協。
 パシャ…
 足下に拡がる水面に手を差し入れ、掌に水をすくう。
「このような水で…申しわけ有りません」
 ドブ池などと呼ばれているその濁った水。だが、水である事にかわりはない。
「せめて…そのお顔だけでも…」
 水をすくったその手で、シンゲンはセイロンの顔を撫でた。こびり着いた白い塊を、口の端から流れた痕の残る赤い塊を。やさしく、そっと、すばやく撫でる。自分の我侭を満たす為に、せめてもの僅かな清め。この後、今まで以上に速く駆ければいい、そう思って。
 その些細な行動が現状を大きく変える事になるとは思いもせずに。
「……?」
 気のせい…だろうか。
 汚れを落としたその顔の、頬の痣が僅かに薄くなったように見えた。シンゲンはその痣の痕に指を這わせるように、今度は頬を丁寧に撫でてみる。
「…!?」
 痣が……消えた。
「ま…さか?」
 シンゲンは再び水をすくうと、目の周り、口元、額…顔の痣の全てに手を滑らせてみる。
「!!」
 傷は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていく。
「な…っ!?」
 これは、一体どういうことなのか。そう沸き上がる疑問よりも先に、セイロンを抱えシンゲンは泉に飛び込んだ。
「もしやこれは…!」
  バシャ バシャ
 まとわりつく水をかきわけ腰まで浸かりながら、シンゲンはセイロンの身体を水面に横たえた。不思議と、その身は沈むことなく水面に浮かび上がる。こころなしか、濁っているとばかり思っていた水は彼等の周りだけ透き通るように澄んで見えた。
 だがそんなあらゆる疑問は、今のシンゲンにはすべて後回しの事だった。
「や…はり…」
 水に浸しただけで、薄れていく傷痕。このような治り方は見た事がある…これは魔法による治癒効果と似た現象だ。それは疑問から、確信へと変わる。
「回復の…泉…か?」
 ここの水にそのような治癒効果があるなど、聞いた事は無い。ライでさえ、そのような事は一言も言っていなかった。それにもしこの水にそんな効果があるのならば、このように汚れ濁るまで放置される事などないだろう。もっと神格化されて敬われている筈なのだ。 だが、今目の前に起きている現象は全て紛れも無い現実。 これは、奇跡なのだ。
 これがドブ池とまで罵倒された濁ったこの泉の真の姿なのだろうか。それとも、これはこの人自身の潜在的な自己治癒の力なのだろうか。角を折られたこの人にまだ自己治癒の力が…?どちらなのか、それはわからない。だが、そんなことはどちらでもいい。どちらだったとしても、この水で傷を洗う事で傷が治癒する、それだけだわかっていればいい。この水があれば、この場でこの人を助けられるかもしれないのだ。
 シンゲンはセイロンの胸に手を当ててみる。
  ………トクン……
 拍動は変わらず弱々しい。
「他の傷も治せばきっと…!」
 顔だけでは無く身体の傷も治せば、きっと回復するに違い無い。シンゲンは浮かぶセイロンの全身に泉の水を懸命にかけ、傷を撫でる。胸にあった蹴られたような痣、縛られ擦り切れたような手足の痕、そして…。
「………」
 シンゲンは一呼吸息を吸い込むと、大きく吐いた。そして覚悟を決めたように、そっとセイロンの脚を拡げさせる。
「……酷い事を…ッ!!」
 惨い傷痕。
 シンゲンは奥歯を噛むと、眉を歪めた。流れた血の跡から予想はしていたが、それ以上。辱めただけでは飽き足らず、最終的に『破壊』に切り替えたのだろう事が見て取れる。どんな奴が、どんな顔で、どんな表情をしたこの人をこんな…。
「…っそれは、後です!」
 今はこの傷について詮索している場合ではない。この人を癒す事だけに集中しなくては。
辛辣な面持ちのまま、シンゲンはその傷にそっと水をかけた。水は傷に触れ、赤く染まり返って来る。傷は深く、他の痣のようには簡単には癒えていかない。しかも、表面だけでは無く、内臓の奥深くまで及んでいるとみえ、 水をかけただけではその傷までは届かないだろう。
「…失礼しますよ」
 シンゲンは身を屈めると、泉の水に口を付け吸い上げた。そのままセイロンの腿を両肩にのせると、傷口に口を当て静かに水を送り込む。逆流した水が、真っ赤に染まり流れ出た。内部の傷が相当酷い事を物語っている。
 シンゲンは水を送り続けた。繰り返し何度も、内部の傷に染み渡るように。
だが水を流し込むだけではどうにも効果が弱い。一向に逆流して来る水の色は透明にはなってくれないのだ。やはり全身の傷を癒した時のように、傷に擦り込むように撫で付けなくては…。
「…御無礼お許しを…」
 シンゲンは一度意識の無い貴人に言葉をかけると、傷付いた其処に指をゆっくり差し入れた。できるだけ奥に届くよう一番長い中指を差し入れ、傷付いているだろう内側に泉の水を撫で付ける。本当にもともと道があったのかどうかも判別出来ない程に破壊された其処は、裂けた肉に無理矢理指を割り入れ拡げているような妙な感触。意識があればおそらく相当の激痛を伴うことだろうが、今は意識が無い事が幸いだった。シンゲンは指を動かし、丁寧に内側を掻き回し、撫で上げる。
 何度かの指の抽送で、その効果はあらわれた。今までただの傷口でしかなかった其処が、次第にシンゲンの指を締め付け始め、回復した筋力が、侵入を拒むように異物を押し出そうとする。どうやら破壊された機能を正常に取り戻したようだ。 

 完全には治せていないのだろうが、これで相当の治癒は出来たはずだ。これ以上は、シンゲンにはどうしようもない事。後は仲間のもとで回復をかけてもらえば、内部の見えない傷まで癒してくれるだろう。だが、もう外的出血は見当たらない。見た目的には傷一つなくなったセイロンの身体。ここに運んで来た時に比べれば随分な回復だ。
「これで…きっと…」
  シンゲンはセイロンの胸に手を当てる。
  ………………。
 何も手に伝わらない。
「…そんな…!?」
 手をあて、シンゲンは待つ。
  ………トク……ン…。
 消えそうな拍動が、ようやく一つ。
「く…所詮は表しか治せないのか…!?」
 何も変わっていない。傷は治しても、何も回復していない。消えかけた生命力は傷を塞いだからといって戻って来るわけではなくて、あいかわらずの止まりそうな生命音。顔の傷を治した、身体の傷も治した、内臓の傷も、できる限り治した。それなのにそれは何一つ意味がなかったという、今更悔いても裂いた時間は戻りなどしない。結局はこんなところで寄り道などせずに仲間の所にまっすぐに走っていれば良かったのではという後悔が襲い掛かる。己の勝手な愚行に胸が締め付けられるようだった。ここが回復の泉だとわかった時は、奇跡が起きたと感じた。ここで傷を癒せば良いのだと、勘違いを…。
「傷……!」
 シンゲンは思いだしたように、突如懐を探った。掌に握られ出て来たそれは、汚れた龍の角。 そう、傷がまだ残っているではないか。重大な、傷が。
  『この角が落とされる時は…我の命が断たれた時であろう』
 思いだされる言葉は、二つの意味合いに受け取れる。命断たれるまで角に触れさせはしないという意味と、角を失う事が絶命に等しいという意味。もし今の衰弱が角を失った事に由来しているなら…この角が繋がりさえすれば…?
「これが本当に奇跡だというのならば…」
 角についた汚れを水で洗い流し、シンゲンはセイロンの頭を胸に抱えた。
 傷を癒す泉。回復の泉。この折れた角を『傷』だと認識してくれたならば、きっと…。これは最後の望みの綱。
「神でも仏でも、この際悪魔でもなんでもいい…」
 右の角痕にぴたりと断面をあわせると、その頭を胸に抱き祈る。
「…お願いします…!!」
 神も仏も一度も敬った事もない自分が、なんとも図々しい事だと思いながら。この人を助けたい一心で、祈る。
「…!」
 手の中で、角が発光する。そっと掌をひらいていくと、シンゲンの目の前で切断面のひび割れたようなその痕は次第に細く薄くなり…消えた。
「…つ…繋がった…」
 全身に震えが走る程の感情の高揚。この感情がどれにあたるのか、言い表わす事ができない程に。シンゲンは懐から急いでもう片方の角を取り出すと、水をくぐらせ左の断面に押し当てた。
「頼みますよ…!」
 同じように、頭を胸に抱き祈る。
 先程よりも強く眩い光が発せられたかと思うと、右同様、左の角はその断面を消滅させていった。
「…角が…治った…」
 触れている身体から先程よりも暖かい体温を感じ、シンゲンは手を白い胸にそっと当ててみた。
  …トクン…トクン…トクン…
 落着いた、規則的な鼓動。止まりかけたオルゴールに再びネジが巻かれたかのような、静かな再生。もう大丈夫…止まりかけた音色は再び音を取り戻した。青白く死人のようだったその顔色も、少しづつ赤みを取り戻し始めている。潜在的な自己治癒能力だろうか、やはり角はこの人の生命を維持するにあたって重要な器官だったのだ。
「良かっ……本当に…」
 繋がった左右の角を携えた寝顔を胸に抱き、シンゲンは暫し呆然と立ち尽くした。腕の中には見た目的には完全に回復した愛しい人の姿。夢でも見ている気分だった。先程までこの人が汚され血まみれだった事など悪夢であったかのように。
  繋がった角に触れ、指先で緩りと撫でてみる。そういえば、この人の頭上にある角にこのように触れたのは初めてだった。どうあっても触らせてくれる事のなかった角に、シンゲンは慈しむように指を滑らせる。欠片として手にしていた時よりも、手触りが滑らかに感じられた。
 よく見ると、左よりも右の角の方が色がくすんでいるようだ。汚れが落ちきっていないのかと思いもう一度水で清めてみるが、そのくすみは消えない。だがそんな事はたいした問題でも無い程に、赤い髪に映える二本の枝は、その人の気品をより一層引き立たせていた。弱っているその姿が逆に、不謹慎にも艶やかに色気を感じさせてしまう。
「セイロン…」
 名を呼んで、水に濡れた無防備な唇に誘われるように口付けた。意識も無く拒む事も出来ないこんな状況でなど、卑怯かもしれない。だが、シンゲンは今までの溜めていた思いをぶつけるように、その唇に夢中で絡み付いた。

 焦がれていた。おそらく初めてあった時から、ずっと。苛々する程憎らしくて、腹が立つ程…愛しくて。
 長い接吻から名残惜しそうに唇を離すと、シンゲンは愛しい人の頬をそっと撫でる。見せた事も無いような穏やかなその寝顔に、自然と口元が笑んだ。本当に、この人は助かったのだなと実感する。幾
人もの命を奪って来た自分が、たった一人の命を救えたことがこんなにも嬉しいなんて。 己の罪の深さを棚にあげて滑稽な話だと感じてしまう。それでも今は、この人の回復が純粋に嬉しかった。
「どうやらなんとかなったみたいね」
「!?」
 ふいに泉岸から声がして、シンゲンは驚いてその声の方を見た。人の気配は一切感じなかったはずだった。
「あらぁ…お邪魔だったかしら?」
 そこには、シルターンの衣に身を包んだ女性が立っていた。
「あなたは…一体…?」
 すらりとしたグラマラスな風貌の、眼鏡をかけた美しい女性。長いだろう赤い髪を結い上げ左右でまとめ、独特の髪飾りで結んでいる。どこかであったことのあるような…しかし、記憶を辿っても見つからない。誰かに似ているような…でも、思い出せない。
「これ」
 ぱさり、と女性の手から何かが泉岸に置かれる。
「要るでしょ?」
 黒地に赤模様のはいった布のようなそれは、見覚えのある…セイロンの服だった。
「え?…えぇ…」
 いったいどこに落ちていたのかしらないが、シンゲンの視界に見えていた範囲では、そのような物は見当たらなかったはずだ。だがあの時はそれ以外の事に気が行き過ぎていたからどこかで見落としていたのかもしれない。
 しかし偶然この女性がそれを見つけ拾ったのだとして、何故これがセイロンの物で、自分達がここにいるのだと知って届けにきたのだろうか…?
「さ〜てと、それじゃ御様子を伺いますか」
 女性は二人のいる泉水に向けて一歩脚を踏み出した。
「!」
 またしても、シンゲンは夢でも見ているのかと思ってしまう。その女性は水面をまるで陸地のように歩き彼等に近付いて来るのだ。その神秘的ですらある光景は猜疑心すら超越し、なんの警戒もなくシンゲンはその女性の接近を許していた。敵か味方かも知れない者の接近を、無抵抗に見守るシンゲン。普段の彼ならば有り得ない事だ。だが、その女性から感じる神聖なオーラのような物が、シンゲンの警戒心を沈めてしまうのだ。
 二人のすぐ傍まで近付いた女性は傍に静かにしゃがみ、眠るセイロンを覗き込んだ。シンゲンの目の前に、女性の頭が近付く。
(これは…!!)
 目の前に迫った女性の髪飾りを見て、シンゲンはハッとした。髪飾りでは無い。これは、この形は…紛れも無く龍の角。セイロンとは少し形が違うが、この輝きと艶は間違い無いといっていいだろう。
「どれどれ…」
 女性は指先でセイロンの右角に触れる。真下の水面に波紋がふわりと拡がった。
「あらら…随分と使っちゃってるのねぇ。これじゃちょっとアレだわね?」
「…?」
 何の事を言っているのかはシンゲンには理解できない。女性は一寸困ったように眉をひそめ何かを考え込む。
「本当はこんなことしちゃいけないんだけど…」
  そう言いながら女性は溜息をつくと、セイロンの角に顔を近付けそっと口付ける。
「!?」
 角が再び発光し、セイロンの身体自体も淡く光り始めた。泉の水も不思議だが、この現象もまた不可思議な出来事。シンゲンの目の前で、くすんでいた片角が次第に輝きを増し、いつしか角は左右対称になるほどに輝きを取り戻していた。
「…うん、こんなもんかしらね」
 右と左を見比べ、うんうんと頷くと、女性はゆっくりと水面に立ち上がった。
「あなたは一体…?」
 シンゲンは先程と同じ問いをもう一度言った。常人で無い事は明らか。今もこうして水面に立ち、そして総てを把握し総てを見透かしたような行動。敵だとか味方だとか、そんな小規模な区分のものじゃない。もっと大きく、広く、格上な存在感。そう、まるで神だ。
(神…?)
 あの角は、紛れも無く龍族。龍族の、神…ということは…!?シンゲンの中に見た事も会った事もない一人の神の名前が浮かぶ。
「もしや、あなたはイスル…」
 そう言いかけた時だった。
「きゃあッ!?」
 バシャン!!
「!?」
 突如女性が激しい水音をたてて水面から消えた。
「冷ったぁ〜!」
「だ…大丈夫ですか…?」
 水の冷たさに不満を言いながら顔を出したその女性は…いやそれは、女の子…?
「あ…!」
 どうりで見た事がある気がする顔。誰かを思いだすが、思い出せなかったその人。
「にゃはははは!バレちゃった?」
 それもそのはずだ。印象やパーツは似ているが、年齢が全く違ったのだ。先程の人は大人の雰囲気漂う女性であったのに対し、いま目の前でずぶぬれになっているのは、十くらいの幼子なのだから。
 しかも
その子をシンゲンは、知っている。
「あなたは…」
「でもねぇ…まだちょっと知られたくないのよね」
 シンゲンがその名を言おうとした時、少女の指がシンゲンの額にピタリとあてられる。シンゲン程の武人も見切る事の出来ないその動き。
「!?」
 グ、と急に身体が重く感じたと思った瞬間、シンゲンの動きは止まった。肉体的な動きが止まったというのではなく、完全に『止まった』のだ。風の流れも、水面の揺れも、シンゲンの周りの何もかもが止まっていた。
 そして額にあてられた少女の指先が淡く光り、『何か』がシンゲンから抜取られる。
「……これで良し、と」
 少女の指が離れても、シンゲンは相変わらずの姿勢のままで動かない。少女はバシャバシャと水をかき分けて岸にあがると、ぷるぷると動物のように頭を降って水気を払った。
「はぁ、それにしても…また戻っちゃったなぁ〜」
 自分の手足を見つめ溜息をつくと、少女はがくりと首を項垂れる。
「でもまぁ、イスルギ様の頼みとあっちゃぁ…しょうがないわね」
 少女は未だ剥製のようにぴくりとも動かずにそのまま佇んでいる二人を見つめ、くすりと笑う。そして、足下の水面を覗き込み言った。
「あなたも…ありがとうね?」
 水面が答えるように揺れ、波紋が拡がる。まるでその中に誰かがいるように。
「さ〜て…と」
 一仕事終えたように大きく伸びをすると、少女はシンゲンが通って来た森を見つめる。
「こんどはあっちね…」
 そして次の仕事にでも向かうように、森の奥に姿を消した。
 少女の後ろ姿が完全に見えなくなった頃、急に風の音が流れ、シンゲンがビクりと身体を震わせた。そして…一時停止されていた世界が再生されるように突如全てが動き出す。
「…角が…治った…」
 シンゲンは一度言った事のある言葉を口にしていた。
「良かっ……本当に…」
 まるで、いま初めて口にしているかのように。
「セイロン…」
 言って、口付けた。
 先程と同じ言葉を口に、先程と同じ行動を当たり前のように。その光景は、時が巻き戻されたかのよう。
 まるで、あの少女と会ったこと事体がなかった事のように。

「さて…いつまでもこうしてはいられませんね」
 眠る龍の体温の確実な回復に冷静さを取り戻したシンゲンは、セイロンを抱き岸にあがった。そして濡れたセイロンの身体を己の服で素早く拭くと、当然のように岸にあったセイロンの服を手に取り、セイロンに着せ始める。
 ここに服がある事に、シンゲンは何も疑問を感じては居なかった。
「これ、お返しします」
 服を着せ終えると、シンゲンはセイロンの帯にそっと扇子を差し込んだ。黒い帯に映える赤。自分も同じように帯に差し持ち歩いてはいたが、やはりこの赤はこの人が一番よく似合う。
「さぁ…もうすぐですよ、若」
 傷も癒え、角は蘇り、整った呼吸と拍動。穏やかに眠っているセイロンを優しく抱きかかえると、シンゲンは林の向こうに視線を送る。もはや無理に駆けていくこともないだろう。むしろ走れば見えない内部に残った傷に響くかも知れない。できるだけ揺らさないほうがいい。
「帰りましょうか」
 シンゲンは愛しい人を大事そうに抱き、静かに歩き出す。
この人の帰る場所、そして自分の居場所…仲間の待つ所へと。


 
二人を見送った泉は再び濁り、来るべきその時の為に深い眠りについていた。




→act:16



2008.02.14

 

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