失楽園
act:3 そして失望にて始まり
「う…」
体中のあちこちに痛みを覚えながら、セイロンはその瞳を開く。
(ここは……)
見覚えのある場所だった。見覚え、どころではないくらいに。ここは見知ったラウスブルグ城内。しかも…守護竜の間だ。
(不覚よの…)
予想はしていたが、手には枷のようなものがはめられ自由が聞かない状態。なにかの魔力で印でもされているのか、いくら気を操っても腕に力が入らない。
「っ…」
だが力が入らないのは、それだけではないらしい。どうやら地面に叩き付けられた時に肩をやられたようだ。腕を動かしただけで付け根に激痛が走る。気巧の力をつかわず肉体能力のみでこの拘束を外す事も、どうやら無理のようだ。
自分は捕らえられたのだな、とセイロンはやけに冷静に認識する。
「…ようやく起きてくれたようだね?」
そして聞こえる、聞き覚えのある先程の声。あの瞳の持ち主の声。
セイロンは声の方へ瞳を動かした。
「あらためてようこそ、龍の若君」
声の主は、振り返ったセイロンの視線の先の椅子に座っていた。
守護竜の、玉座に。
「ーーッ貴様、そこを降りぬか!!そこは守護竜殿のーー」
セイロンは声を荒げ怒鳴る。
「ぐぁッ!?」
と同時に、背後から背を殴られ地に顔を伏せさせられた。
「…今は我等が主人ギアン様の場所だ」
「なッ…!?」
それは、クラウレだった。槍の柄でセイロンの背を地に押さえ付けたまま、淡々とした口調でそう告げる。かつてこの場で仕えしその人の神聖な場所を、セイロンの前でいとも簡単に、クラウレは否定した。
もう、敵の…この男。
「そう、今は私の場所…おわかりかな?」
「〜〜ッ!!」
歯噛みして睨み付けるセイロンに、玉座にわざとらしく座り直す様を見せつけ、ギアンは愉快そうに微笑む。
「…さて、クラウレ?」
ギアンの視線がクラウレに向けられる。
「はい…」
「ぁうッ…!」
クラウレは枷を掴み強引にセイロンを立たせ、ギアンの御前に引き摺るようにセイロンを歩ませる。
「っ…クラウレ…!」
名を呼ぶ声など聞こえぬとでもいうように、セイロンをどさりと地に放り投げギアンの前にもう一度ひれ伏せさせる。ギアンの横に控えていた亜人達がクラウレと入れ代わる様にセイロンの両脇を固め、クラウレはそのまま、ギアンの隣へと移動した。敬愛するその人の隣へと。
「君を招待したのは他でもない…」
ギアンが玉座から立ち上がる。すらりとした細身の身体が数歩あゆみより、セイロンを見下ろすように目の前に立ち止まった。
「君が、どうにも気に入らなくてね」
そういってギアンは穏やかな表情にはそぐわない程のゾッとするような冷たい瞳で、微笑む。
「居るだけで…気に入らないんだよ。わかるかい?」
セイロンが眉間に皺を寄せギアンを睨み付ける。言われている意味がわからないという様子だった。
「………言っておくが、我を人質にしたとしても御子殿は…」
「それとこれとは、また違う話なんだ」
「…!?」
唯一の共通項である竜の子を否定され、セイロンは更に疑問を深めたように皺を寄せる。それ以外に、この男との接点はない。竜の子を手に入れる為の策略の一貫でないというのなら、何の目的があるのか見当もつかないのだ。
「起こせ」
クラウレの合図で伏せに押さえ付けられていたセイロンの身体は引き起こされ、後ろ手に拘束されたままギアンに対面させられる。臆せず正面から睨み付ける龍人の若君の前に屈み込み、ギアンは徐にその帯に触れた。
「……上等の衣だな」
手触りも肌触りも良いシルターンでも相当上物の反物で出来ている。龍人の若君ともあろう人物なのだ、想像もつかない程の高価な着物なのだろう。帯をなぞり袖に触れ、襟を撫で装飾を指で弄び…その手触りを楽しんでいたかに見えたギアンの瞳が、突如として吊り上がる。
「…当然のように……こんなものを着て…!」
空を裂くような高い裂音が鳴り、前衣が勢い良く裂かれた。
「…な…?」
突然の事で、セイロンが状況を把握出来ずに眼を瞬かせる。
「良い服を着て当たり前だと思っているんだろう?」
破れた襟元を捕まれ、ギアンの顔が近付く。
「自分の存在が、尊い者だと思っているんだろう?」
間近に迫った赤い瞳が、貫くようにセイロンを見つめてくる。
「…そなた……一体何を言っているのだ?」
「さっきから言っているだろう?」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、眉間に皺を造りながらギアンは憎しげに言う。
「君が気に入らない、と」
長く生きていると、いろいろな事を経験する。立場上命を狙われた事も数え切れない程有り、憎まれる事も僻まれる事も、珍しい事では無い。いちいち対応していられず、笑って躱して過ごしてきた。この男もまた、その一人という事なのだろう。こちらには覚えが無くても、勝手に逆恨みし攻撃をしてくる。童な行動もいいところだ。セイロンは苦笑した。
「そなたが勝手に気に喰わぬのは一向に構わんよ。我も万人に好かれようと思って生きているわけではな…」
パン!
言葉途中でギアンの平手がセイロンの頬を打つ。
「その物言いも、気に入らないな」
打った手でセイロンの胸ぐらを掴み、ギアンは再び顔を寄せる。
「私を…見下しているだろう?」
今にも噛みつきそうな、泣き出しそうな、不安定な笑いを浮かべ、ギアンはセイロンに詰め寄る。
「まるで上から総べてを見下したような…気に入らない…気に入らないんだよ!振るまい、物言い、存在の全てがね…!!」
「!」
ギアンが掴んだ胸元を左右に強く引くと、亀裂の入っていた服は小気味の良い音を立てて綺麗に縦に裂け、黒い布地の下に映えるセイロンの白い肌が露になった。その一部に、赤く腫れ上がり色付いた箇所がある。
「……ほぅ?」
ギアンの手が、その箇所を指で押す。
「…!」
セイロンの左目が僅かに細められた。無言のまま、ギアンはその指の力を強めていく。
「…く…っ」
少しづつ、セイロンの表情が強張っていく。そこは、先程痛めた左肩だった。
「ふぅん…?」
ギアンは口の端を吊り上げ、突如セイロンの身体を掴むと床に投げ倒す。
「っ…!」
左肩を庇うように受け身をとったセイロンが身体を起こそうとした時、ギアンの脚が起きかけたセイロンの肩を踏み付け、その身体を再び地に叩き付けた。地面と踵に挟まれた肩に、衝撃が走る。
「ぐあぁッ!?」
激痛。
「肩を痛めているね?そうだろう…そうだな?」
「うッ…くっ…ッあ、うぐッ…アアァッ!」
仰向けに倒れたセイロンの肩をギアンの硬い靴の踵が火種を揉み消すように踏みにじり、蹴るように力を込めて何度も踏み付けた。骨を損傷していたと思われる其処は、踏まれる度にミシミシと何かが割れていくような音をセイロンの耳元で立てる。
「ふん…」
ギアンの脚がようやく離される。
「はぁ、はぁっ…」
シンと静まり返っている城内に、全身に汗を浮き上がらせたセイロンの荒く呼吸を吐く音だけが聞こえる。誰も、何も言わない。クラウレはただ、黙ってそれを見ているだけだ。
「……治せ」
ぽつりとギアンが言葉を零した。
「さっさと治すんだ」
「…な…に…?」
「ストラを使えるんだろう?…さぁ、早くその傷を治したまえ」
薄笑いを浮かべたギアンが、苦痛に顔を歪めているセイロンを見下ろす。
「その枷はラウスの命樹で出来ていてね…攻撃性のある力には反応し抑制する。だが回復に関する力には無反応だ。その状態でもストラだけは使えるぞ?」
「………」
「さぁ、回復したまえよ」
セイロンが不信気にギアンを睨み付ける。真意が読めない。この男が何をしたいのかが解らない。突然暴力的に攻撃してきたかと思えば、それを治せといいだす始末。それならば、暴力的行動に出た意味がない。真意が、解らない。
「ギアン様…」
何かを感じたのか、クラウレがギアンに歩み寄った。その表情はとても辛らつな表情だった。心配しているのだ、『ギアン』を。
「もうそのような…」
「黙れクラウレ」
クラウレのかける言葉を拒否し、ギアンは一向にストラを使う気配なくこちらの様子を伺っているセイロンを睨み付ける。
「さっさと…」
歩み寄ったクラウレの腕から、ギアンが槍を奪い取る。
「私の言う事を…聞け!!」
「!?」
突然の事でクラウレが反応するより早く、ギアンはそれを地に突き立てた。
「ぐああああぁああーーッ!!」
悲鳴があがる。
「ギアン様!?」
槍は肩を貫通して地に突き刺さり、セイロンを床に縫い付けた。起き上がる事も動く事も出来ぬ様。
「くく…これならどうだ?」
地にそそり立つ槍の柄を、ギアンは脚で蹴った。響く振動が、柄を伝わり切っ先へと。ビクン、とセイロンの身が跳ねる。
「痛いか?痛いのか?…そうだ、痛いだろう…?」
槍の柄を掴み、支点を中心にぐるぐるとまわすと、其処からはごぷりと血が沸き上がった。守護竜の間に再び竜の血が広がって行く。
「うあァッ!ぐッ…あ…!」
痛みを必死に堪えるセイロンの顔が、次第に蒼白になる。
「ふふ…苦しいだろう…?」
掴んだ柄に力を込め槍を勢い良く引き抜き、そして、もう一度。
「うああああぁああーーッ!!」
悲鳴があがる。
「ふふ…くっくっく…あはは…ッ!」
身悶えるセイロンを見下ろし、ギアンの表情が次第に喜々とした恍惚の表情をうかべる。狂気的に笑い声をあげながら、掴んだ槍を何度も、何度も振り降ろす。飛び散る血と、悲鳴と、そして笑い声。
「ギアン様!!」
「!」
そんなギアンを、クラウレが後ろから抱き締めるように押さえ付けた。
「落着いて下さい…ギアン様!」
「…っ……」
興奮気味で槍を握っていたギアンは、我にかえったように脱力した。倒れそうによろけるその身体を、クラウレが強く抱き締める。不安定な、その身体を。
「…大丈夫だクラウレ」
暫くしてその手を振り解き、ギアンは冷静な様子に戻り足下に転がる龍人を見る。ぐったりとしたその身体は、胸を上下させながら不規則に弱々しく呼吸していた。
ギアンは槍を手にすると、今度はゆっくりと引き抜く。
「う…、あ、…ッ…」
小さなうめき声を漏らしセイロンの身体が痙攣する。びくびくと身体を時折震わせているが、その左腕だけは、もう動く事は無い。
「さて…」
ギアンは血濡れの槍を無造作にクラウレに渡した。クラウレはそれを黙って受け取り、目を伏せる。
「どうする若君?」
先程までとはうって変わったような落着いた口調で、ギアンは言う。
「早くストラを使わないと…このままだと、死んでしまうだろうね?」
余裕を取り戻したかのような見下した笑みを浮かべ、ギアンは屈み込んでセイロンの髪を掴み、その顔を覗き込む。苦しむその顔を見逃したく無いというように。
「さぁ…」
「……っ…」
このままでは生命に危険が及ぶということは、セイロン自身が一番感じている事だろう。
「どうする?」
「………」
この男の真意はわからない、だが。
「す…ぅ…」
セイロンは乱れる呼吸を落ち着け、必死に大きく深呼吸する。
「…は…ぁ…」
そしてその息を大きく吐くと…セイロンの身体から暖かい気が迸る。ストラによる気の流れは枷に邪魔される事なく、セイロンの身体を包み込む。回復術に影響を及ぼさないというのは、嘘では無かった。
「………ほほぅ」
目の前で起こる回復の奇跡。あれだけ手酷く暴力を受けた傷が、次第に塞がり、消えていく。瞬時にでは無いが、確実にゆっくりと、治癒されていく。
「…たいした能力だ。素晴らしい…その力、素直に賞賛させてもらうよ」
その回復力を確認し皮肉まじりで嘲笑うと、ギアンはセイロンの髪を放した。地に頭を打たれながらも傷の痛みが緩和していくにつれ乱れていた呼吸も落ち着きを取り戻し、セイロンの思考も冷静に働き始める。
不本意ながら、セイロンはこうするしかなかった。ギアンの言う通りにするしか。あの方との約束を果たす前に、こんな所で朽ちるわけにはいかないのだ。たとえそれがどんな屈辱的行為であっても。
「…これで満足か?城主殿…」
「ふふ…そう、それでいいんだ」
棘のある口調で敬意を表せば、それを嫌味とも受け取らず満足そうな返事。
「君は死なない。そう、殺さなければ死なない…」
当たり前の事を、復唱するようにぶつぶつと呟きながら、ギアンは嬉しそうに目を細める。
「同じだ…同じなんだ…くくく…くっくっく…ははは…」
おかしくてたまらないというように一人で笑い出すギアンの肩を、クラウレの腕がそっと抱く。
「ギアン様…」
その手は、冷たく振払われた。
(クラウレ…)
なぜクラウレが裏切ったのか。その理由をセイロンは理解した気がした。今目の前のこの状態こそが、その答えだったのだ。全てを投げ捨ててまでも、魅入られて…。
(…っ愚か者が…ッ)
言い知れぬ感情がこみ上げ、セイロンはギリと歯を噛み締める。それが怒りなのか、悔しさなのか、悲しさなのか…もうわからない。だがそれが何であろうとも、もうどうでもいいことだ。敵となったこの者に、そのような感情を抱く必要はもうないのだから。
「さぁ、宴を始めようじゃないか…!」
セイロンの終る事の無い迷想をギアンの声が断つ。
笑いを零したままのギアンはそう叫ぶと、地に身体を伏した侭のセイロンを掴み引き起こした。
「肴は貴公だ…どうだ特上の肴だろう?」
小馬鹿にしたようにそう言って、ギアンはまた一人で笑った。本当に、愉快そうに。
「偉大なる龍の若君よ」
ギアンは皮肉を込めて畏まった敬称でセイロンを呼んだ。それは貶める為の前振りの様で。
「今から…この世の底辺を存分に味わわせて差し上げよう…!」
ギアンの手がセイロンの帯にかけられた。
「!」
勢い良く引かれた帯は只の布となり解け、帯によって纏められていたセイロンの服が崩れ、乱される。
空を舞う帯の隙間から、クラウレの冷めた瞳がこちらを見ていた。
2007.02.15