『セイロンと手合わせをしたそうですね』
突然のその会話に、クラウレは身を硬くした。
『…御存知でしたか』
クラウレは守護竜の前に片膝をつくと、頭を下げる。
『…申しわけありません。守護竜様の客分と承知の暴挙にて、どのようなお叱りもうける覚悟でございます』
セイロンは守護竜の大事な客だ。それに喧嘩を売るような真似をしたのだ。守護竜が黙っているわけはない。そう思い重々しくそう延べたクラウレに、守護竜は小さく笑った。
『いえ、そのことはいいのですよ。セイロンも楽しんでいたようですからね?何も咎めるつもりはありませんよ。さぁ、もう顔をあげなさい』
『…申し分けありません、ありがとうございます』
守護竜の寛大なお言葉にもう一度謝罪すると、クラウレはいわれるまま面をあげた。
『あの子が…セイロンが少し愚痴をこぼしていたものですから、二人の手合わせに私も興味が湧いただけなのですよ』
『愚痴?』
守護竜の耳にこの事がしれたのは、どうやらセイロン本人によるものらしい。まさか告げ口というわけではないだろうが、一体どんな内容の愚痴を零したのか、クラウレはそれが気になった。
『えぇ、「こんなところで角の力を使うわけにはいかないのだ、それなのにあやつは我を煽る」…とね』
そういうと守護竜はその時のセイロンを思いだしているのか、おかしそうにふふっと笑った。きっとへの字口で眉を歪めていたに違い無い。容易に想像ができるというものだ。
『角の力…ですか?』
セイロンが零した愚痴というのは、どうやら角のことらしい。だがクラウレにはその意味するところがわからず、守護竜に聞き返した。
『あぁ、話した事はありませんでしたか』
『はい』
『龍人が亜竜ということは知っていますね?』
『はい』
亜竜というのは、守護竜のように竜の道を極めた至竜という存在になる素質を秘めた竜の事。中でも『龍』と表現される種族は、最も至竜の領域に近いという。ようするに、セイロンは守護竜のような立派な至竜になる過程の、至竜の卵ともいえる。
『龍人の角というのはですね…来るべき時のために力を貯えているのです』
来るべき時というのは、この場合竜に至るということだ。亜竜から至竜へと。いち獣人であるクラウレには理解できぬほど、神秘的な肉体と能力の進化を遂げる瞬間の事。
神秘的…まさに、そのとおりだろう。各世界から多様な種族が集っているここラウスブルグではあまり意識した事はなかったが、セイロンは彼らの故郷鬼妖界を統治する龍神の眷族である。神に近しい大層な身分の男なのだ。そんな神格クラス種族の、しかも長になるべき男と手合わせなど、ここでなければ考えられぬ事。
『あなたとの手合わせでは、ついその貯えていた力を使いたくなってしまうほど、あなたが強い…と、そういう意味なのですよ』
その男が、クラウレとの戦いで守護竜に愚痴を零したいうのだ。それだけクラウレを認めたという事。
『それは…戦士である俺には光栄な事なのですね』
『えぇ、そうですね』
だがクラウレは、素直に喜ぶ事は出来ない。このラウスブルグ最強の戦士として。
『…やはり手を抜いていたのだな』
クラウレがセイロンと手合わせする度に感じていた違和感、不自然な勝利。クラウレはようやく合点がいく。それは、セイロンが角の力を使わないように制御しながら戦っていたからだったのだ。最強とうたわれるこの自分に、手加減をするという屈辱的行為。光栄などでは決してない。
『ならば…その角の力とやらをセイロンが使うとすれば、如何程の戦闘力なのですか?』
戦士としてはその角の力の解放されたセイロンの強さに興味が湧くのも当然といえよう。今の侭でも強いと感じている男が、本気になればどれほどのものなのか。そんな男と戦ってみたくもなる。そして、負かしてみたい。
守護竜は穏やかに微笑みながら、ハッキリと言った。
『…今の貴方の力では、まず倒せない相手となる事でしょう』
『!』
今の侭のセイロンと自分はさほど戦闘力に違いがあるとは思わない。だが、それは力を押さえた仮の能力にすぎない。竜の流れを組むものと、一戦士の圧倒的な力の差を言い聞かされた気分だった。それほどに、あの角には力が秘められているらしい。いいかえれば、至竜になるためにはそれだけの力を必要とするということなのだろう。
『もし…角が折れればどうなるのですか?』
それだけの力を秘めているのなら、切り離されれば如何に。もしその角を戦いで落とすことができれば、適わないと言い切られた戦いにも勝機は見出せるのでは…。
『セイロンの角を折り、彼を負かそうと考えていますか?クラウレ』
『い、いえ…そのような…ッ』
守護竜にその考えを読まれてしまい、クラウレは内心動揺する。
『竜の角は、貴方のその翼と同じく誇り高き象徴。セイロンとて、そう簡単には折らせてくれませんよ?』
『い、いや…決してその………申しわけありません…』
本気でそんな事をやろうとは思っていない。格上のものと戦う為の戦術の一つとして、浮かんだだけだ。実際にそんな戦いをセイロンとしたいわけじゃない。第一それは卑怯だ。正々堂々とぶつかりたい。あくまでも、手合わせなのだから。
『…ふふ…あなたは正直者ですねクラウレ』
嘘をつけないクラウレが、動揺を顔に出すのを守護竜はくすくすと笑う。守護竜も、クラウレが本気でそんな事を考えてなどいない事はお見通しだ。だがクラウレが疑問を抱くのも、守護竜には理解できた。
『角が折れるとどうなるか…でしたね』
守護竜が、クラウレの問いに答える。
『一時的に龍の力を失う事になるでしょう。戦闘力、魔力…そして卓越した生命力も、そのすべてを』
『一時的…ですか?』
『万が一に角が折れるような事があったとしても、角はまた生えて来るのです。ゆっくりと時間をかけて再生し、また力を貯えはじめるのですよ』
セルファンの翼は、折られ失えば2度とは戻らない。それだけに大事であり、誇りの象徴でもある。だが龍の角というのは、どうやら折られたとしても復活するものらしい。なんとも便利に聞こえる。そこは不老長寿の神格クラスゆえの再生力というところだろうか。
『なるほど…折られたからといって力を失うわけではないのですね』
それならば、やはり戦術の一つとして角を折ったとしても…と考えかけて、クラウレは守護竜に悟られる前に慌ててその考えを消した。自分はこうも戦いにおいて貪欲だったのかと自嘲したくなる。
『たしかに、生えてはきます。ですが一時的とはいっても、一般的な時間の感覚では途方もなく長い間という事になります。その間は完全に無力になってしまうのです。時間をかければ再び力も使えましょうが、その力は以前の力よりはずっと弱いものなのですよ』
そんなクラウレの考えを読んでか読まずか、守護竜は言葉を続けた。
『以前よりずっと…ですか』
やはり角を折られる事は致命傷なのだ。戦士として。
『えぇ、おそらく…』
そして…龍としても。
『もう、至竜になることはできないでしょう』
失楽園
act:9 砕けた欠片
人気のなくなった地下牢には、床に転がる龍人と石像のように立ち尽くした男が二人きり。
「くっ……!」
動かない指先に力を込めると、じわりと僅かに指が動く。邪眼の効力がきれかけているのだ。
ギアンはクラウレに邪眼をかけたまま、まるで見せしめのようにクラウレをそのまま地下牢に放置した。それは罰でもあり、反省を促す猶予でもあった。彼を殺す事も出来た。だが、ギアンはクラウレを殺しはしなかったのだ。
「う…ぐッ…くそッ…動け!」
硬い硬直した全身に力を込めていくと、少しづつ末端から動かせるようになってくる。そしてある瞬間に、その拘束力が一斉に身体から消える。
「ぐはッ…!」
その場に崩れるように膝を落とし、クラウレは地に手をつく。 全身にいまだのこる筋肉の硬直の余韻と痺れ。あいかわらずギアンの邪眼は強力なものだった。
だがクラウレはすぐさま膝を起こすと、強張る身体で立ち上がる。そして、駆け寄った。
目の前の、男の元に。
「セイロン!」
横たわる男は赤い髪を地に散らし、身動きしない。
「熱い…」
近寄っただけでもわかるほどの高熱。触れる事でそれはより確信できた。そっと後頭部に手をさしいれ、その頭を抱きかかえる。その左右には、丸い切断面がまるで髪飾りのようにその赤い髪に座していた。目尻からは幾筋もの涙の流れた跡が残り、半分程開かれた瞳は虚ろに濁る。
「…ストラを…ストラをかけろセイロン!」
セイロンの喉から返事の変わりに苦しげな呼気がもれる。
『一時的に龍の力を失う事になるでしょう…』
クラウレの脳裏に思いだされたのは、かつての守護竜の言葉。
「まさか……使えん…のか…!?」
角を失ったセイロンには、もう己の肉体にストラをかける事などできなかった。与えられた外傷のままに、ひたすら弱っていく。
「セイロン…!」
己を癒す事も出来ない。
己の身を護る事も出来ない。
約束を守る事も出来ない。
使命を果たす事も出来ない。
もう、至竜になることは出来ない…。
角を切断された外傷的ダメージと喪失感は相当なものらしく、唯一の生気の証とも思われた瞳の輝きすらすでに失われている。生きる希望も龍の誇りも何もかもが奪われ砕かれ…ここにいるのはもはや、廃人だった。
「……っ」
クラウレは無言でその身体を抱き起こし、胸に抱く。 こんな姿を見たくはなかった。この男はいつだって気丈で高慢で…そんな男のこんな姿を、想像も出来なかった。
こうさせたのは、自分だ…。わかっている。こうなる事はわかっていた。それでいて逆らわず、拒まず、助けず…。そして逆らった時には遅かった。もう、どうにもならなかった。
それなのに、あの人は裏切れない。あの人を放って置けない。あの人が愛おしい。
「セイロン……俺は…ッ!」
それでも、この龍を死なせたく無いと思う貪欲さ。二つの違う道を歩もうとしても、決してどちらにも辿り着けないことなどわかっているのに、どちらも捨てられずに。
ふと、風の流れる気配がする。
キィ……コツ…コツ…
「!?」
階段を誰かが降りて来る。クラウレは即座にセイロンをそっと床におろした。立場上このような様を誰かに見られるわけにはいかなかったのだ。 近付いて来る音はギアンのものではないことに僅かに安堵しながらも、一人ではない気配にクラウレは立ち上がり階段を見つめる。捕えた捕虜を見張る一人の兵士として。
そこに現れたのは、ギアン直属の仮面の兵士達だった。
「……何用だ」
彼らは牢の中に入ってくると、クラウレに歩み寄った。
「…!?」
いや、クラウレではない。セイロンに歩み寄ったのだ。そして横たわるセイロンの身体を掴むと、その脚を開かせた。
「…な…なにをしている…やめろ…もういい!その男はもう抵抗する意志は無い、これ以上は…!」
止めに入ろうとしたクラウレの前に、一人の兵士が歩みでてそれを妨害する。
「どけ!その男はもうストラを使えん…!もし死ぬような事があればギアン様が…!!」
ギアン様がこの男の死を望まない。その言葉はクラウレにとって、最後の武器となるはずだった。
「…これは、先程下されたギアン様の命令です」
だが、立ちふさがる兵士はそんなクラウレの言葉に一言返す。すべてを打ち砕くように。
「『加減する必要はない、好きにしていい』と」
「!!」
思考が暗転するような衝撃。
「…そ…んな…」
最新のギアンの命令の前には、以前に下された命令など破棄されたも同前。なんの拘束力もない。目の前で陵辱されるセイロンを止める理由が、クラウレにはなくなってしまったのだ。
「…ッ!!」
クラウレは男を押し退けると、牢を飛び出し階段を駆け上がっていった。
「やぁクラウレ…もう痺れはとれたのかい」
不敵に微笑む主人は、クラウレが来る事がわかっていたかのようにそう言った。見晴しの良い窓の前で、ギアンは地を這う虫けらを見下ろすかのように下界を眺め、開いた窓から流れ込む風に髪を靡かせている。
その右手には…象牙色の枝が2つ。
「ギアン様!なぜあのような命令を…」
「…そのまえに、言う事があるだろう?」
質問をなげかけようとしたクラウレに、ギアンの瞳が鋭く光る。
「ッ…!」
クラウレは、ギアンの前に跪くと頭を下げた。
「…申しわけありませんでしたギアン様…このクラウレ絶対的忠誠を再度誓い、どのような処罰も受ける覚悟でございます…!」
「……………ふん、よろしい」
ギアンが声をかけるまでその姿勢を保ち服従を露に謝罪すると、許可を下したギアンの表情に笑みが戻る。ギアンの機嫌の取り方は、クラウレはもう心得ていた。気に喰わない事があれば怒り癇癪を起こし、服従を見せ言う事を聞けば御機嫌になる。この男は気難しく複雑にみえて、じつはとても単純に出来ているのだ。
「ギアン様、セイロンの…」
「あぁ、あの若君ね」
クラウレが口を開きかけると、ギアンは再び言葉を遮り、先に言った。
「もう、いいんだ」
「な…!?」
「だって、そうだろう?もうあの龍は私を不愉快にさせる事がなくなった」
自分にさからう龍を痛めつけ屈服させ、死なないように何度でも痛めつけてやるというのが目的だった。だがもうストラをつかわないのならば、リサイクルできない塵と同じ。むしろ、龍でもなくなりなんの抵抗もしなくなった時点で目的は達成されたも同前。ギアンにとってはもう用のない廃棄物だ。
「し…しかし…それならば、もう拘束する価値もないのでは…」
言葉を選びながら言ったクラウレにギアンは邪気のない笑みで言った。
「そう、だから…もう死んだっていいじゃないか」
「…!」
いらないものは排除。ギアンの考えに根付いた対処だった。決して解放しようなどという考えは持ち合わせていない。いらなくなったものは総べて消してしまう。それがギアンの常識。わかってはいた。主人がこういう男だということは。
「角を…その角はどうなさるのですか…?」
「あぁ…これかい?」
ギアンは右手に握ったそれを口元にもっていくと、煙草でも吸うかのように口に含み吸い込む。
「龍の角は凄い魔力だ…だが、これは私の魔力に変換する事はできないようでね」
龍の魔力は独特で異質なもの。龍にしか使えないものだった。力を奪い自分のものにしようと思っても、龍族でないものには意味がないのだ。自分の力の足しになれば幸いとでも思ったのだろうが、其れが出来ぬと解りギアンは少々残念そうだった。だが、それが本来の目的だったわけでもなく、もともとそんなものが無くても充分に強いと自負するギアンにとっては取るに足りない些細な事でもあった。
「それではその角は…もういらないのですね?」
もし、その角を本来の持ち主にもどしたなら…多少なりとも力が戻るのではないだろうか。少なくとも、己の身体にストラをかけるくらいは。クラウレに僅かな望みがうまれる。
「そうだね、私には不要のものだ。だから…」
そんなクラウレの抱いた希望を知ってか、ギアンは窓に歩み寄る。
「もう、いいんだ」
ギアンは右手をかかげると、開いた窓の隙間に振りおろした。
「!!!!」
角がふたつ、空に踊る。
「ふふ…っくっくっく…あははははは!」
瞳を見開き硬直したクラウレの肩を笑いながら二度程叩くと、ギアンは靴音高らかに部屋を出ていった。その笑い声はクラウレの耳を離れない。
「…っ!」
ギアンが部屋を出るとクラウレは直ぐさま窓に駆け寄り、眼下を見下ろした。
もう、何も見えない。
「……くッ…!」
窓を全開に開け、クラウレは迷わずその窓から身を踊らせた。見失った欠片を求めて、地上へと。
「せいッ!はぁッ!」
鋭い太刀筋が設置された丸太をなぎ倒す。迷い無く振りおろされたその刀は、総べてその上三分の一当たりを斬り落としていた。
まるで、人の首を跳ねるように。
「…シンゲン、ちょっと休んで中でお茶にでもしないか?もうずっと…」
「てぃッ!」
バサリ、と丸太の破片が地に落ちる。
「米もあるぜ?なぁ…」
「…結構です御主人」
「シンゲン…」
かけられた声にも応えず、シンゲンは剣を振い続ける。その帯からは、彼には不似合いな派手な色の扇子が覗いていた。
あれからもう、ずっとだった。クラウレがこの宿にあらわれてから、ずっと。シンゲンはここで剣を振い、障害物を切り落とし続けている。その殺伐とした眼光は、周りの者を寄せつけない程だ。意を決して話し掛けたライの言葉にも、彼の返事は快いものではなかった。己の感情の赴くままに、敵を切り落とし続けているのだ。
「お茶をのもうと剣を振おうと…何一つ現状は変わりやしません。ならば自分は…剣を振るのみです」
ただ剣を振うことでしか、己の感情を押さえられない。そんなシンゲンに、ライもかける言葉がなくなってしまうのだ。
みんな、気持ちは同じだ。もどかしく、苛立ち、なんとかしたい。だができないのだ。敵のいる場所はわかっている。わかっているのに、何も出来ない。空を飛べる数名が仲間にいたとて、向こうは敵の城塞、それで何ができようか。あの空に敵がいる以上は、こちらから手を出す事は何も出来ないのだ。コーラルもあの天空城の中まではセイロンの魔力の気配を探れないという。もはや生死すらも不明。そんな現状、落着いて茶など飲んでいられようか。シンゲンは己の衝動を押さえ切れない。
「さぁ、御主人も丸太のようになりたくなかったら…離れていて下さい」
「シンゲン…!」
冗談ともとれない言葉に表情を歪ませるライに背を向け、シンゲンは再び刀を構え振り上げる。
「…!!」
だが、その手を振りおろさずに、動きを止める。
「……これはこれは…」
「コーラル!?」
いままさに刃を振りおろさんとしていたその対象の前には、小さな竜の子が立ちはだかっていたのだ。
「馬鹿!危ないだろコーラル!こっちこい!」
「………」
コーラルはタタッとかけてくると、ライではなく、シンゲンの腰にしがみついた。そして、顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「シンゲン……怖い」
「…!!」
シンゲンの手が、ゆっくりとおろされる。
「…………」
シンゲンは暫くそのまま無言でコーラルを見つめていたが、溜息を一つつくと握った刀をそっと鞘におさめる。
カチリ、と凶器がおさまった音をきくと、コーラルはゆっくりと顔をあげシンゲンの顔をじっとみつめた。
「…殺人鬼みたいな顔をしていましたかね…自分」
こくん、と頷いたコーラルにシンゲンは苦笑した。
こんな子供を怖がらせて、仲間を突き放して、不甲斐無さといら立ちから剣を闇雲に振る事しか出来なかった。周りの気持ちを考えるなど、正直どうでもよかったのだ。
みんなだって辛い。充分わかってる。
その中で自分がこんな行動をとることはみんなの心をさらに乱しているだけ。そんなことはわかっていた。それでも、それで自分の心が満たされればそれでよかった。だが、結局それすら何もできてはいないではないか。何も満たされない。何も解決しない。
なんという、無駄な浪費。体力の消耗。来るべき時に備える事もできない幼稚な行動。愚か者。
「なんだか…腹が減りましたねぇ、御主人」
ふと口から出たのは、穏やかな口調だった。
「お…おぅ!」
ライの表情に、明るさが戻る。シンゲンにしがみついていたコーラルも無表情ながら心無しか微笑む。
「それじゃ、なんか旨いもんつくってやるよ!いこーぜ!」
「…お手数かけますねぇ」
いつもの調子の良い笑みを浮かべながら、シンゲンはライに続いて歩き出した。その笑みが、本心からでは無く偽善の愛想笑いでしかないことなど、ライにだってコーラルにだってわかっている。だが、それでいいのだ。ここでその表情をつくれたということは、仲間の事を思ってくれたという証なのだから。それが嬉しかった。たとえ、現状がなにも好転しなくても。
だが、止まっていた歯車は突如として動き始める。
「……!!」
宿の入口に近付いた頃、コーラルが急に立ちどまり、空をみつめ硬直したように立ち尽くす。
「……どうした、コーラル?」
以前にも一度、似たような反応を示した事があった。その時はたしか…。
「まさか…」
こくん、とコーラルは頷いた。
「セイロンの匂い…」
シンゲンの顔つきが変わる。
「凄く強い魔力…でも…変なかんじ…」
「どういう事だ!?」
以前は、セイロンではなかった。セイロンの匂いを僅かに漂わせた、別人だった。今度は前とは違って強くセイロンを感じるのだという。ではコーラルのいう変な感じ、とは一体何なのか。
「セイロンなの…今度は確かにセイロンだと思う……」
「じゃあ何が変なんだ?一体!?」
コーラルは困惑したように、セイロンの魔力を感じる方角を探る。
「でも…」
だが、やはり『変な感じ』にかわりはない。
「…ふたつある…セイロンの魔力が……ふたつ、違う場所に向かってる……でも、半分なの…」
「!?」
コーラルの感じたものは確かにセイロンの魔力だ。だが、本来ありえない事態に陥っている。セイロンが二つに分かれて空から降りてくると言うのだ。しかも、その力はまるで分裂したかのように半減していると。
「いったいどういう…」
「そんな事はあとでよろしい!」
疑問を口にするライの台詞を遮り、シンゲンはコーラルの肩を掴み自分の方を向かせる。
「どっちです!?」
強い口調で問いただすシンゲンに一瞬びくりとしながらも、コーラルは指をそっと掲げた。
「…あっち!」
掲げられた方角に、風が流れる。目の前にいた男はその方角に向けすでに駆け出し、その余韻の風圧がコーラルの髪を靡かせた。
「シンゲン!まて…罠かも…!!」
「かまいたち!」
召喚した獣を己に宿らせ、叫ぶ声が直ぐに聞こえなくなる程、風のように、より速く。コーラルの指差した方角は、折しもセイロンの消息が途絶えた山道の方。険しい道も張り出す木々も、風に乗り、刃で払い、ひたすら直進する。もはや何もきこえてなどいなかった。何も見えてはいなかった。そう、上空遠くに滑空する人影など、何も。
場所は違えど立場は違えど、その感情すらも異なり決して重なる事は無く。時同じくして、二人の男は動き出す。
失った欠片を求めて。
2007.06.17