罪と罰<11>
「…悟浄」
額のタオルを交換しながら、ふせられたままのその瞳の持ち主の名を呼ぶ。車中で失った意識は、街に着き医者による治療を受けた今もなお戻らない。
「………」
その胸に巻かれた白い包帯のうえに、八戒はそっと手をかざす。無駄とわかっていても、無意識にそうしてしまう。
「………そんなことしても無駄だ」
かけられた声に、びくりと八戒の手が退く。
「てめぇにはそんなこと出来ねぇんだよ」
三蔵の言い方は酷く棘を含んでいた。
「…だいじょうぶだって、八戒!こいつきっと明日にはケロッとなって目ぇさますからさ…な?」
落ち込んでいる八戒に、悟空が笑顔を引き攣らせながら必死に明るく接して来た。強がって無理をしているのは見え見えだ。それほど悟浄の容体は深刻だったのだ。
そんな状態でも自分だけは気丈に振舞っていようとする悟空の姿と、自分を見比べ八戒は苦笑する。
「………悟空にまで気をつかわせてしまうなんて……本当ダメですね、僕は」
「…わかってんじゃねぇか」
思わず漏らした言葉に、すかさず三蔵の言葉が返って来る。
「三…蔵…?」
振り返った其所には三蔵が冷めた瞳で八戒を見ていた。
「…よくわかってんじゃねぇか」
「三蔵!そういう言い方って…!」
「てめぇは黙ってろ!」
ぐ、と悟空は言葉を飲み込む。
「これで……てめぇも自覚しただろ…」
「え……」
まっすぐに見つめて来る刺すような三蔵の視線。
「てめぇの身も守れねぇ不様な奴なんざ………そんな役立たずはいらねぇんだよ!」
「ーー!!」
叩き付けられた言葉に、八戒の思考が真っ白になる。
気付かない訳じゃ無かった。でも、声に出して言われると…痛い。
「 ……僕…」
「聞こえなかったのか?…いらねえっていってんだよ!」
「やめろって三蔵ッ!」
「うるせぇッ!!」
ガツッ!
思わず口をはさんだ悟空を、三蔵は殴り飛ばした。
「…ッてぇ…もぉアッタマ来たッ!」
いくら三蔵とはいえ、横暴なその態度に悟空も我慢ならなくなっていた。殴られた衝撃で切れた口の端を伝う血を拳で拭うと、キッと三蔵を睨み付ける。
「なんだ?やるのか?」
「…ッてやらぁ!」
悟空が三蔵に対して挑みかかることなど、めったにあるものではない。だが、いまこの状況において悟空は三蔵の態度を許せないものがあったのだ。この状態だからこそ繋ぎ止めておきたいものを、壊してしまうその危機感を感じて。
「…やめてください二人とも!」
悟空が三蔵に掴みかかった瞬間、その声は言った。今にも殴りかかりそうだった二人の拳が、止まる。
「三蔵の…言う通りです」
眠る悟浄の頬を撫でながら、八戒の震える声は静かに語り始めた。
「こんなことになるなんて思って無くて…すごく浅はかでした……」
「…八戒?」
「僕……人間なんですよね……何も出来ないただの、人間なんです…」
「…………」
もちろん三蔵は知っていた。悟空ですら、気付いていた。おそらくは悟浄も。
拳を降ろし、二人は黙り込む。その言葉を発してしまったら、もう、戻れないのだ。
「皆の足を…引っ張りたくないです……僕は…だから…」
もう、戻れないのだ。声に出したその瞬間から。
戻れない。でも、この時間を進めたくは無かった。先に見えている結果は一つだけで、誰もがわかっていることだから。
沈黙が、続く。
「……………行け……」
低い、押し殺したような三蔵の声が沈黙を斬る。
「……………はい…」
消えそうな声で、八戒が答える。悟空はただ、無言のままだった。
時は、動いてしまったのだ。
「…ッ…さっさといけぇッ!!」
急に荒げた怒鳴り声に八戒がびくんと肩をふるわせる。
「ー−ーッ、はい!」
八戒はギュ、と拳を握りしめると、自分に背を向けたままの三蔵に聞こえるような大きな声で返事を返し、そのまま背を向け部屋を飛び出した。
「ーーー八っ…」
「追うな!!」
後を追おうとした悟空を三蔵の鋭い声が引き止める。
「……ッ!」
追いたい気持ちの先走りと、その行動が正しい事では無い事の狭間で揺れていた悟空の足をとめるには、それで充分だった。もしこのまま八戒を連れ戻したとしても、その行為は何も解決させることなどできない。悟空にもそれがわかっていた。
人間になった八戒は、遅かれ早かれ自分達と一緒にはいられない…。
「…からって…だからって、あんな言い方ってないだろォッ!三蔵ッ!!」
「うるせぇッ!」
やり場のない苛立ちは、近くにいるものにむけられる。
「三蔵……知ってたんなら、とめる事だってできたんだろッ!?なんで…」
どう考えても、三蔵と二人で外出したあの時期に八戒は人間になっている。一緒にいた三蔵ならそれをとめる事だって出来たはずだった。人間になればこうなることだって、三蔵には見えていたはずだ。それなのに八戒を行かせた三蔵に、悟空は怒りがおさまらない。
「うるせぇんだよ!黙れ!!勝手に人間にでもなってどこへでも行けばいいだろう!奴の勝手だ!!俺の知った事かッ!」
「ンのぉッ…!」
悟空は再び三蔵につかみ掛った。そして感情に任せて振り上げたその手は、不意にとまる。
「…………だったら……なんでそんな顔してんだよ三蔵……」
殴るつもりでつかみ掛かったのに、殴れなくなってしまった。三蔵の顔を見てしまったから。悟空の怒りはどこかに吸い込まれて行くようだった。
「…………うるせぇッ…!」
悟空の手を振り解き、逆に三蔵の拳が再び悟空を殴り飛ばす。だが悟空は、今度は殴り返してこようとはしなかった。逆に、哀れむような瞳で三蔵を見ていた。
「…なんだてめぇ…その目は…!」
三蔵の拳が再度悟空を打つ。だが悟空は、黙ったままその視線を外そうとしない。
「…くっ…!」
三蔵にはそれが、腹立たしい。理不尽に殴られてなお、哀れむようなその目が。
「…のッ…何見てやがる…!見るなッ…俺を見るなッ!見てんじゃねぇよ!!」
感情に任せて悟空を殴りつける三蔵を、悟空は無言で受け止めていた。この人はとても不器用な人だから…悟空はそれをよくしっているから。
「…っ…はぁ…、ハァ…」
幾度となく悟空に振りかざされた拳が、止まる。長い横髪に隠れた表情が息を切らせ、拳を降ろす。
「三蔵……」
「うるせぇッ!!」
悟空の声を遮る三蔵の声。聞きたくなど無いとでも言うように。言われなくても、自分が一番わかっているのだから。
「…………あいつが……」
わかっているから、どうにもできない苛立ちと…後悔。
「あいつが…人間になりたいって……そう、望んだんだよ…ッ……」
何が正しいかなんて、誰にもわからない。