罪と罰<12>
ガサ…ガサ…
自分の足下でなる草の音と己の息づかい以外は、何も聞こえない夜。町からそう離れてはいない森とはいえ、この時間にこんな場所をうろつく人間など他にはいない。
「…………」
不意に脚を止め後ろを振り返るが、其所に有るのは静寂と闇のみ。
「………何を期待してるんでしょうね…僕は」
自嘲気味にそう漏らし、八戒は川辺に座り込んだ。
「追って来る人なんて…いるわけないじゃないですか」
追って来たとしても、戻るつもりなど無い。戻れるわけがない。それでも…追って欲しかった。せめてその気持ちだけでも。
「悟浄…」
彼なら追って来たかもしれない。追ってくれた筈だ、きっと。だが、それすら適わなくさせてしまったのは自分に他ならない。
「きっと……良くなりますよね…?悟浄……」
生命力の人一倍強い彼のことだ、そう信じたい。
「……人間…ですか、これが…」
いつもと何も変わって見えない己の掌を見つめ、その姿を川面に映し苦笑する。
人間だった時には当たり前でしかなかった人間だという事。それを失って初めて、強く求めはじめる。それが手に入らないとわかっているが故に、それに憧れ追い求める。人間だった時が幸せだったかどうかなんて詮索もせずに、記憶の中で美化される偶像。
「…………なんで僕は…人間になりたかったんでしょう…」
今となっては、その理由すらもうわからない。川面に映る人間を眺めながら、八戒はもう戻れない時間に思いを馳せる。そう、無いものねだりのように。
ガサ…
「!」
不自然に草の揺れる気配がして、八戒は警戒と期待を胸に振り替えった。だが、そこには誰の姿も無い。
「…感覚も鈍りましたかね…なにしろただの人間ですからねぇ……」
誰に言うでも無く、独り言を言って八戒は自嘲した。もはや自分で言うしか無かった。もう誰も責めてくれる人がいないから。
だが気のせいかと思ったその時、聞き覚えのある声が響く。
「おや、そこにいるのは 『猪悟能』じゃないですか…」
「!?」
鳥肌が立つようなその声に反射的に振り返ると、先程まで誰もいなかった筈の其所には間近にせまる見覚えのある顔があった。
「清…一色…!」
忘れもしないその顔。印象に残るその糸目、馬鹿にしたような口元の笑み。その全てが、虫酸が走る程の嫌悪の対象のその人物。
「あぁ、やっぱり猪悟能ですね……」
不快な笑みを浮かべる口元から虫のように舌が現れ、ゆっくりと舌舐めずりをする。
「な…ーーーッ!」
突如として出現した巨大な百足。恐ろしく長いその身体はまるで縄のように八戒に纏わりつき、あっという間に傍にあった木に八戒を吊るし上げた。
「くッ…!?」
人間の八戒には、それを振り解く事も引きちぎる事も出来ない。まして気巧を使って撃退するなど、適わない。
「嬉しいですよ、また貴方に会えて」
「貴方もしつこい人ですね…僕はもう猪悟能じゃありません…ッ!」
八戒は懸命にそう口にし、清一色を睨み付ける。力を失った八戒にはそのぐらいの抵抗しかできないのだ。
だが清一色は口元に笑みを浮かべると呆れたように言った。
「何を言っているのです猪悟能? 」
八戒の目線の高さにふわりと浮いた清一色の手が八戒の頬を舐めまわすように撫で回し、恐怖に引き攣り怯えすら浮かべたその表情を楽しみながら上向かせた。
「ッ…!」
合された唇に何の抵抗もできずに、舌の侵入をも受け入れさせられる。まるで虫のように口内をはいずりまわる清一色の長い舌。
「貴方が猪悟能だからこそ…こうして我がここにいるのですよ?」
清一色の爪の長い指が八戒の襟元にかけられ、そのまま一気に振り降ろされた。衣を裂く音が夜の森に響き、八戒の白い身体が外気に晒される。
「貴方が…我を呼んだのですよ?」
「なッ…あ……!」
現れた醜い傷痕を愛しそうに指でなぞり、 そして愛撫をするかのようにその傷に舌を這わせはじめる清一色。神経の過敏な其処に触れられる感覚に八戒の身体が過剰に反応を示してしまう。
「この傷があるかぎり貴方は我を呼び、我は貴方を求める。……そう、この傷があるかぎり、貴方からは罪も我も消える事などないのですよ…クク…」
ズボンにかけられた手が、八戒の衣服を引き摺り降ろす。
「う、やめっ…!」
生暖かい口内に自身を包まれる感触に八戒が上擦った抗議を漏らすも、ただなすがままに弄ばれていく。妖怪の力の前に人間のできる事などたかがしれているわけで、痛感する無力さに涙すら滲んで来るのだ。
「……おや、何を泣くのです?」
それに気付いた清一色は顔をあげ、小馬鹿にしたようないやらしい笑みを浮かべながら八戒の顔を覗き込む。
「貴方が…望んだのではないですか?」
人間になることを。
「我は『猪八戒』が嫌いでしたよ…えぇ、それはもう本当に虫酸が走る程にね…。だから貴方は我の嫌いな『猪八戒』 を殺した…我の為に…クク…そうでしょう猪悟能?」
「違ッ…!」
否定しようと睨み付けたつもりが、途端に瞳から涙が次々とこぼれ落ちてきた。
「違うというのなら、何を泣く必要があるのです?」
「…………」
笑う清一色の声に何も言い返せず、八戒は黙りこくってしまう。
「いえ………貴方の…言う通りですよ清一色……」
その通りだ。否定する事など出来ない。
「僕は……」
処刑に値する罪を犯した自分に再び与えられた『猪八戒』という命を、三蔵がくれた…その名前を。
「僕は…自分を殺したんだ…ッ」
自分の手で、彼の前で、殺したのだ。
「こんな…そんなつもりじゃ……なかったのに…!僕は…僕はただ…!」
ただ、何をもとめたというのだろう?だがいくら納得のいく言い訳を探しても…『猪八戒』を殺し『猪悟能』に戻る事を望んだ、それを否定する事は出来ないのだ。八戒はそのまま言葉を詰め泣き崩れる。
失って初めて気付く事が有る。『人間』である事を失った時に感じた絶望と同じように、あれほど嫌悪の対象でしかなかった『妖怪』 としての自分自身を失ったという事への失念。嫌悪していた妖怪の力に自分がどれほど頼って生きていたのか…そして『妖怪』であるがゆえに得られた事がどんなに大きかったのかを、失って初めて気付くのだ。今更悔んだって、もう遅いというのに。
「猪悟能…この時をどんなに待ち望んだ事か…ふふ…ク…ククク…」
泣き崩れる八戒に満足げな笑みを浮かべると、その興奮を押さえ切れずに声を立てて笑いはじめる。
初めて会った時から、八戒に…いや悟能に執着し続けて居た清一色。その悟能が今、無抵抗で目の前に転がっているのだ。うっとりとその半裸の痴態を眺めまわし、清一色はもう一度舌舐めずりをした。
「さぁ…あなたの痴態をもっと我に見せて下さい猪悟能…」
清一色の手が八戒に伸ばされた。
「楽しませて下さい…もっと…もっとですよ!」
そして狂ったように笑う清一色のまわりから無数の百足が現れ、絶望にうちひしがれる八戒に襲い掛かる。