罪と罰<7>
僧侶のカウントの声が響く。
「…997…」
入れ代わる僧侶の影で八戒の指先が僅かに動く。
ーー…あと…3人……ーー
譫言のように徐々にカウントの減っていくその言葉を呟きながら。
「……998…」
虚ろな瞳の八戒の口元が僅かに微笑む。
ーーー……あと…ふた…り…ーーー
夥しい血溜まりと白濁した体液に塗れ、罪を罰に代える事で痛みと引き換えに恐怖が癒されていく。何者かに支配され、己を見失う恐怖から。
ーーー人間に、戻れるのだ……本来の自分を、取り戻すのだーーー
「…………999」
もはや何も感じなくなった体内に、新たな聖液が混じる。満腹状態の腹部がゴポゴポと音をたてながら、それを受け入れる。
「あ……」
八戒の虚ろな瞳が僅かに見開かれた。
ーーーあと、ひとり…!!ーーー
カクン……
急に、八戒の首が何かの支えを失ったかのようにうなだれる。
「………八戒殿?」
999人目の僧侶の腕の中で、八戒は意識を手放していた。
「あと一人ですぞ、八戒殿?」
「八戒殿!」
僧侶達の声にも反応せず、頬を叩かれてもその瞳は開かない。八戒の体を揺すり意識を戻させようと試みるものの、八戒は完全に失神してしまっていた。
もう数十度目の失神だった。しかも、あと一人という所で。
「あと一人と思い、一気に精神力が緩んだのでしょうな…」
僧侶が身を退くと、接部から大量の液体が溢れ出して来た。破壊され弛みきった其処は、容れ物をひっくり返したように内なる液体をただ垂れ流す。
千に、あと一人足りない聖液。
「…おい、今のウチにさっさと変な経唱えちまいな」
それまで無言で傍観していた観世音菩薩は、じれったそうに言った。僧侶はその言葉にギョッとする。
それは、とても危険な行為なのだ。
「か…観世音菩薩様…!しかし…意識の無い状態では危険ですので…」
ただでさえ精神と肉体の苦痛を伴う儀式、意識の無い状態で耐えきれるものではない。
今までだって、意識の無い時は意識の回復を促してから行っていたのだ。そうしなければ、精神も肉体も壊してしまいかねないのである。
それを今になって失神中に儀式を強行するなど、しかもあと一人で満了というところだというのに、ここで強行し失敗してしまっては今までの全てを無駄にしてしまうことになる。
「いいからやれって。時間ねぇんだろ?どうせ間に合わなけりャこいつにとって無意味なんだから、さっさとやれよ」
「し…しかし…」
いくら観世音菩薩の言葉とはいえ、僧侶達は今度ばかりは賛同しかねていた。一つの儀式と一人の妖怪の命を無にしてしまうかもしれない事に、僧侶として、人として、抵抗を感ずる。
観世音菩薩ならば、この状態の八戒を覚醒させることができるはずだ。いままでそうしていたように。だが、今に限って観世音菩薩は一向にそうしようとする気配がない。そして何故回復させないのかというような催促を、誰も観世音菩薩に言い出せないでいた。
そんな僧侶達の視線を知ってか知らずか、観世音菩薩は何かを確信したように自信ありげに言うのだ。
「大丈夫だ…こんぐらいじゃ死なねーよ、こいつは」
観世音菩薩は八戒に歩み寄ると、顎を掴んでその顔を覗き込む。
「このぐらいでくたばるような奴に、力をくれてやる気は無ぇ!」
「観世音菩薩様…」
「……なぁ?てめーはこんな事で死ねねぇよな?」
意識の無い八戒に観世音菩薩は語りかけた。
「…そうだろ………天蓬?」
観世音菩薩は失笑した。瞳の閉ざされた綺麗な寝顔に、誰かの面影をを思い出しながら。
「…………やりましょう…!」
一人の僧侶が意を結して言った。
「…………そうですな」
「わかりました」
「やりましょう…!」
それを合図のように、口々にそう言いながら僧侶達は八戒を取り囲み禅を組む。
「栓を…」
一人の僧侶がだらしのない八戒の口に杭を押し込める。
「…これでももう役にたちませんな」
「これを」
「…うむ」
すでに一度交換したその杭ですら栓の役目を成さなくなっている程拡張されきった其処に、細めの杭をもう一本捩じ込んだ。ギチ、と八戒の骨盤が軋む。だがそれでようやく、栓としての効果を発揮する。
「それでは…始めます!」
号令と共に、経の合唱が響いた。
ビクンッ!
八戒のカラダが電気ショックでも受けたかのように跳ねた。そして膨張した腹部が歪に蠢き、八戒のカラダへの浸透を開始する。
ゴボッ!
八戒の口から泡と共に嘔吐物が噴き出す。意識の無い抵抗力の少ない状態での儀式に、八戒の肉体が軋む。
「…ぐ……」
僅かに八戒の口から音がもれた。
「…気にするな、続けろ」
観世音菩薩の声に、僧侶達はそのまま経を読み続ける。
「…あ…ッぐ…」
また、今度はもっとハッキリと声がもれる。
そして、その瞳が開かれた。
「あ…ぐああああああぁッッ!」
「!?」
獣のような叫び声をあげ、見開かれた八戒の瞳は人間のものとは思えない程鋭い光を放っていた。綺麗に切りそろえられている八戒の髪の襟足がざわざわと生き物のようにうごめきながら伸び、その背を覆いはじめる。そして抵抗するように延ばされた腕に、薄らと紋様が浮かび上がってきていた。
「……起きたな…『猪八戒』 」
観世音菩薩がニヤリと笑った。
「こ…れは…!?」
「な…妖怪変化…!?」
「妖力制御装置をつけたままなのに!?」
目の前で起こっている信じ難い現象に、僧侶達がざわめいた。
「狼狽えんな!続けてろ!」
「…ハッ!」
八戒の変貌に一瞬経が途切れるが、観世音菩薩の一言で僧侶達は再び儀式に精神を集中させる。
「う…があああァッ!」
その輪の中心で、自分を消滅させようとする行為に暴れ出した妖怪『猪八戒』は、苦痛に悶えながら殺気走った目で周りを睨み付けた。
「…苦しいか『猪八戒』?」
「う…ううッ!」
妖怪『猪八戒』は苦痛に歪んだ顔で声をかけた観世音菩薩を睨む。
「てめぇはコイツを殺そうとしてるんだ。てめぇ自身をな。…わかってんだろうな?」
「う…ぐ…うッ!」
妖怪『猪八戒』は観世音菩薩に襲いかかろうとするも、身体を襲う衝撃にすぐに倒れ込む。
「それで…いいんだな?」
念を押すように観世音菩薩は問うと、つかつかと妖怪『猪八戒』に歩み寄る。
「観世音菩薩様ッ!?危険ですッ!」
「続けてろって言ってんだろこのトリ頭!」
止めようとする僧侶を振り切って観世音菩薩は結界の中に足を踏み入れた。そこは妖しの者にのみ苦痛と激痛をもたらす空間のため、目の前で悶え苦しむ妖怪『猪八戒』とは対照的に、神である観世音菩薩にとっては何の弊害も成さない。
「だったら…手を貸してやるぜ……」
観世音菩薩は思い出さずにはいられない小憎らしい顔を目の前の男に重ねながら、その妖怪に歩み寄った。
綺麗な顔して変わり者の曲者で、頭が良くて策略家のくせに無鉄砲で、天界をめちゃくちゃに引っ掻き回して死んでいった男、天蓬元帥。嫌いではなかった。次に何をやらかすのか目がはなせなくて、危なっかしくて、見ていて面白かった。退屈しない男だった。
その男の現世での生まれ変わり、猪八戒。彼に天蓬元帥だった頃の記憶は無い。はじめて会った特、観世音菩薩の事すら覚えていなかったのだから。もはやまったくの、別人だといっていいだろう。
それでも、観世音菩薩はその男の面影をこの男に見てしまう。
「こんなとこで壊れんなよ天蓬…また俺を楽しませろよ?」
「う…がああァッ!」
妖怪『猪八戒』は観世音菩薩を睨み付け、身構えると観世音菩薩に襲いかかった。
「か…観世音菩薩様ッ!!」
僧侶達の叫び声が牢獄に響いた。