罪と罰<8>
「観世音菩薩様ーーッ!?」
眩い光が薄暗い牢の闇を切り裂いた。
「ーーーー!?」
その光の中心で、今まさに観世音菩薩に飛びかからんとしている猪八戒の額に観世音菩薩の指が押し当てられている。
「…グ……!」
そのまま、猪八戒は固まったように動きを封じられていた。
「最後に会えて良かったぜ『猪八戒』…」
キィン!!
「!?」
観世音菩薩の指先を支点に光が集束したかと思うと、今度は弾けるように光の輪が辺りに拡散した。
「うぉ…!?」
激しい風圧と衝撃に、周りを囲んでいた僧侶の輪が弾け飛ぶ。これには流石に僧侶達も経を続けて居られなかった。
「観世音…菩薩様ッ!?」
飛ばされた身を起こし、僧侶達はその輪の中心に居た神に一斉に心配を寄せる。
「………おお…御無事で…!」
そして僧侶達は無傷で立っている神の姿と、その足下に崩れている妖怪の姿を目にする。だが妖怪といっても先程の凶暴な妖怪では無く、妖力の制御された人間の姿をした妖怪だった。
暴走した妖力は観世音菩薩によって制御されたのだ。だが、その体はピクリとも動かない。
「八戒殿は…?」
歩み寄った僧侶達は、八戒に一定の距離をおきながらその様子を伺う。
「…大丈夫だ生きてる。もう暴れねぇよ」
観世音菩薩は横たわる八戒に喝をいれた。
「…………ん……」
ゆっくりと、八戒の瞳が開く。虚ろながらも綺麗な翡翠色の瞳が、今の自分の状況を把握出来ないらしく、頻りに辺りを見回している。
「……僕は……今…何を…?」
暴走した記憶が、八戒には無い。
「別に…たいしたこっちゃねぇよ」
観世音菩薩は苦笑した。
「いったい何が………ん?…どうしてお腹が…」
八戒は思い出したように己の腹に手をあてる。ケロイド状の傷の残るその腹は、記憶の中の膨張した状態ではなくスッキリとへこんで居た。中に詰め込まれていたモノが消えている。
「お前が寝てる間に経を済ませたぜ」
「…そうだったんですか 」
それも八戒の記憶にはない。 たしか999までのカウントは聞いたのだが、その後は真っ白だった。何かとんでもない事をしそううになった感覚だけは、薄らと体に残ってはいるのだが。
「そんなことよりあと一人で儀式が終了だぜ。…ヤんだろ?」
「あ…は、はい、勿論です!」
その事を思い出し、八戒の表情に僅かな笑みがさす。
あとひとり。
あと一人我慢すれば…人間に戻れるのだ。
「最後は何方ですか?」
自分を人間に戻してくれるその人を、八戒は視線を巡らせて探す。
「私が…」
その視線の先に、聡明そうな一人の僧侶が姿を現した。おそらくはこの中の僧侶の中で一番偉く、力のある僧なのだろう。見ただけでそのオーラが溢れ出ていた。大体トリを勤めるのは大御所と相場が決まっているものだ。
「おう、お前か最後は」
観世音菩薩はつかつかとその僧侶に歩み寄る。
「はい、観世音菩薩様の御前にて痴態を晒す御無礼をばお許し願いたく…!?」
観世音菩薩はその僧侶がこてこてと挨拶をしているのを無視して、襟首を掴むと引き寄せた。
「何をなさ…ーーーーーーー!!!!」
そして………接吻。
「……おー、随分イキがイイじゃん。たっぷりと頂いたぜ♪」
「そ…そんな…か…観世音菩薩〜〜っ…」
観世音菩薩の足下に僧侶がへなへなと崩れ落ちる。
「だ…大僧正様……」
「なんと哀れな…」
「ずっと待っていらしたというのに…」
僧侶達の同情の溜め息の合唱が漏れる。
「……さて…と」
その様子をあっけにとられて見ていた八戒に観世音菩薩が不敵な笑みを投げかけた。
「おい、最後はコノ観世音菩薩様が相手をしてやるからな」
「え…!?」
「どうしたもっと喜べ!神とsexなんざ、そう出来ねぇんだぞ?」
たしかに、こんな性格でこんなノリだが、このお方はまごう事無き天界の神なのだ。僧侶よりもずっと、力を持った『聖液』に違い無い。
100%戻れるという保証はない。ただ、その可能性があるだけだという事を八戒はいまさらながら思い出す。それならば僧侶よりも神の方がその確率は格段に高いだろう。僧侶に神様の力が加われば奇跡のような現象が起きても不思議ではない。
「観世音菩薩…」
八戒は観世音菩薩に懇願するような視線を向けた。どうか救って下さいと、その瞳はそう言っているようだった。
「よっし、覚悟はできたみたいだな。……しっかし、神様を迎えるにしちゃ…その体は失礼極まりねぇと思わねぇか?」
八戒の傍らに観世音菩薩が膝を着く。自力で起き上がれない八戒の上半身を抱き起こすとその痛々しい程に汚れきったその体を眺めまわした。その表情は薄らと沈痛な面持ちにも見える。
その顔が、八戒の顔を覗き込むように近付いてくる。
「はい…あの……ッ!?」
そして、接吻。
八戒の体にどくどくと活気が蘇って来た。朦朧としかけていた意識も鮮明になり…麻痺していた体の痛覚も再び鮮明に蘇る。
「ん……っ…!」
苦痛に眉をひそめたその体に観世音菩薩の指が伸ばされ、触れた傷口をやわらかく暖かい光が包む。触れた唇から送り込まれる生気と指先に治癒されていく痛み。壊れた八戒の体は、見る間に修復されていく。
「あ………」
「……スゲーだろ」
唇がはなれた時、八戒にはもう痛みは微塵もなかった。疲労感も欠片もない。すっかり形の変わってしまっていた其処も、まるで誰にも触れられた事などないというように元通りになっている。
八戒の体は儀式の前の状態に完全に回復したのだ。
「あの……あ…ありがとう…ございます…!」
「…別に、シマリの悪いのは趣味じゃねぇだけさ」
観世音菩薩は憎まれ口を叩きながら綺麗で不敵な笑みを浮かべた。