千と一夜の地下室

第十一幕「憎しみの終わりに」

 利華は下を向いたまま手に触れていた鉄の塊を握りしめていた。自分でも何をしているかわからない程、夢中だった。
 ただ、その引金を弾いた感触だけは鮮明に残っていた。
(俺は………)
 頬を生暖かい感触が伝っている、何かが風を切ったのだろう。
(俺は…生きている…のか?)
 ゆっくりと顔をあげた利華の目には、銃をこちらに向けるM2の姿があった。その胸からは紅い体液の塊が床に溢れ落ちている。
「き…さま…!」
 どさり、と利華の目の前でM2が崩れ落ちる。紅い血が利華の足下にまで到達しそうな勢いで広がって来た。
「あ…」
 急に利華は体が震え出す。
(今……俺は…人を殺した!?)
 自分のした行為に今さらながら恐怖を感じる。
「…勘違いするな……」
 突然背後で声がした。
「!?」
 振り返った利華の目には、利華の前方に向けて銃を構えるD・Kの姿があった。その銃口からはゆらゆらと煙りが立ち上っている。だがその足下には…M2と同じような紅い血溜まりが出来始めていた。D・KはM2と同じように、その胸に大きな紅い染みを広がらせ、そして、そのまま座り込むように床に崩れ落ちた。
「あ…う……わ…!」
 利華を挟んで二つの血溜まりが襲い掛かるように伸びてくる。紅い、紅い化け物が罪悪感を引き連れて自分に向かって襲い掛かる。
(俺が…撃ったのか?俺が殺ったのか…!?)
 大量の血と罪の意識に
利華は臆して腰を抜かしていた。
「なん…てこった…!」
「…たいへんだ…!」
 一斉に騒ぎ出した牢内はその場にへたり込む利華になど目もくれず、混乱する利華を置き去りにして目まぐるしく動き出した。
「D・KとM2が私的発砲による相打ちだ、早く上に連絡を…」
(相…打ち…?)
 ただ 呆然とその流れを見つめていた利華だったが、その言葉にだけ、僅かながら反応を示した。
(奴等の相打ち…なのか?今のは……だって、俺が撃ったんじゃ…)
 利華は握りしめたままの銃を見た。硝煙が立ち上るその銃口。
(やっぱり俺が……撃った…!)
 明らかに火薬の発せられたその物的証拠は揺るぎない事実。利華は銃を撃ったのだ、 M2という男に向けて。そう、利華の体は覚えている。自分がM2の胸を咄嗟に狙って引金を引いた感触を。
 そしてその男は今、大量の血を流し目の前で倒れている。
(麗蒔は…人殺しなんかじゃなかった…でも…でも俺は……ッ!)
 利華の全身ががたがたと震え出す。利華は半ばパニック状態に陥っていた。 かつて得た事の無い罪の重荷に。
(俺…は……!)
 その時、だった。

「全員その場から動くなーーー!!」

 馬鹿みたいにデカイ声が地下に響いた。
「一体何を騒いでいる!?」
 聞き覚えのある声は、そのまま牢の中に入ってくる。
「……祥之様!?」
 数人の厳つい男を引き連れた祥之が、そこにはいた。
「坊ちゃん…!?」
 そう男達が呼ぶと同時に、祥之の周りを取り囲んでいた男が声を張り上げた。
「坊ちゃんではない!このお方は第五代目当主祥之様、我等が新しい旦那様である!!」
「なッ…」
「なんだって!?」
「マジ…かよ!?」
 冗談で無い事は、いつも旦那様の周りに仕えていたいた男達が祥之を取り囲んでいる事で明らかだった。だが、あれだけ跡継ぎを拒絶していた祥之なだけに、部下達には信じられなかったのだ。しかしこれ見よがしに祥之の指に光る、継承の証の指輪を確認してしまった以上、彼らとて信じないわけにはいかない。
「どうだわかったか!?俺が今日からお前等の主人だ!わかったら俺がいいと言うまで全員その場から動くな!!」
 祥之はありったけの声でそう叫ぶと牢内の男達を蹴散らした。
「ちょ…まって下さい祥之様…今は緊急事体で…!」
「うっるせぇなッ!俺だって良く状況掴めてねぇんだよッ!俺に口答えすんな!」
 祥之はとにかくこの騒動を収めようと人山をかき分ける。部下達の不祥事の終結、それが祥之が当主になってからの最初の仕事だ。
 はじめて踏み入れたこの地下室。その実体に正直かなり面喰らった。だけどもう、後にはひけない。この組織の、この地下の施設も含めたこの組織のボスに、自分がなったのだから。何があろうと、逃げない覚悟。
「祥之様っ…」
「いいからそこどけッ!…って、うわぁッ!?なんだよコレぇ!?」
 祥之は人山をかき分けた先に、血まみれになって倒れている男を見つけた。巨体が床に崩れ赤い体液を垂れ流している。
「これは…M…2…か!?一体誰が…!!」
 視線を先に巡らせた祥之は、その先に固まったままの利華の姿をとらえた。その手には銃が握られている。
(……まさか…利華…が!?)
 いや、そんなわけはない。この男はそんな事をする男では…ないと思う。そう信じたい。祥之は放心状態の利華に近付き、声をかけた。
「利華…しっかりしろ利華!オイ、一体何があったんだ!?」
 利華の体を揺さぶり、祥之は心ここに有らずの利華の意識に問いかける。そして近くに、もう一つの血溜まりが出来ているのを発見した。
「……こっちは…D・K…か!?」
 利華のすぐ背後に倒れている男は、すでに白い顔をして体液を大量に流出していた。非番だった彼は防弾用の強化繊維の服を着ていなかったんだろう、胸に致命傷を受けている。
 そして、その手に握られた銃からはいまだ僅かに白い煙りが揺らめいていた。
「………」
 M2とD・Kが以前から仲が良く無かったのは祥之も知るところだった。そういう事か…と祥之は眉間に皺を寄せる。腕の良い暗殺者同士の撃った銃弾だ、おそらくどちらも助からないだろう。
 そんな瀕死の男の横には、正体を無くした男が一人、呆然と天井を見つめている。ぶつぶつと何かをつぶやきながら。殺しを目の前で目撃して相当ショックを受けたのだろう。その点祥之は、死体をみるのはこれが初めてではなかった。育った環境の違いだろう、このような事体にも正体をなくすようなことはない。尤も、なくしているようではこの組織の当主は勤まらないが。
「おい、利華!」
 もう一度、 祥之は利華の体を揺さぶった。揺れる体が、何かを呟く。
「…俺は……人を…殺し…」
「利華?…おい!」
 利華は譫言の様にそう呟き、なかなか此所に帰ってこようとはしない。どうやら自分が殺したのだと思い込み、放心しているようだ。
 祥之は舌打ちすると利華の頬を強く叩いた。
「起きろ馬鹿ッしっかりしろ!撃ったのはお前じゃないぞ!D・Kだ!お前は誰も撃っちゃいないんだよ!」
「 …D…K…?」
 まだ虚ろな瞳の利華に、誰かの声が届いた。

『…勘違いするな…』

 距離は、利華の方が断然至近距離だった。だけど、腕はアイツの方が断然上だった。

『貴様ごとき腕で人を殺せると思うなよ』

 聞こえなかったはずの、その言葉の続きが利華の耳に届く。
「……!」
 その声は利華の迷いを否定した。フッと瞳に光を戻し、祥之をその目にとらえ、利華は正気を取り戻す。
「祥…之…?」
「やっと帰ってきたな…利華」
 その様子に祥之はようやくホッとして胸を撫で下ろした。彼がこうして無事で生きていた事に、ようやく安心出来たのだ。もし自分の我侭で命を落とされてでもいたりしたら、一生後悔してしまうところだった。
「……なぁ利華、それで麗蒔は?麗蒔は何所だ?」
 そして、本題である。
「………あ…そうだ、麗蒔!!」
 我に返った利華は慌てて跳ね起き、麗蒔の元へ駆け出した。部屋の隅にボロ雑巾のように投げ捨てられている人影。それが麗蒔と気付き、祥之はギョッとする。
「麗蒔!?あれが!?」
 祥之も利華の後を追いその人影にかけようとした時、祥之の前に数名の男が立ちはだかった。
「いけません祥之様!あれは旦那様の命により始末しなくてはならなく…」
「〜〜どけッ!」
 祥之を止めに入った男の一人に祥之は殴り飛ばす。
「阿呆かッお前は!今は俺が旦那様だっ!俺が後を継いじまえば跡継ぎ争いなんてもう関係ないんだッ!!そうだろうが!?跡継ぎ候補抹消なんて命令は無効だ!麗蒔はもう自由だ、手を出すなッ!」
「!!…は…はいっ!」
 この混乱した状況下で、普段は頭脳明瞭な男達も尤も基本的なその事には気が付かなかった。 確かに祥之が五代目を引き継いだ以上、麗蒔にはその跡継ぎの権利自体が無くなっている。麗蒔を始末しなくてはならない必要性はもう、無くなったのだ。
 そう、もっとはやくにこうしていれば…でも祥之にはその決心が付けられなかった。跡を継ぐのはどうしても嫌だった。だが、麗蒔を救うには、自由にするには、自由にしてやれるには、こうするしか他に手はなかった。もう我侭坊ちゃんからは、抜け出さなければならない。ようやく、そう決心がつけられた。これが生まれながら自分に与えられた使命。
 駆け寄った祥之は、利華の腕の中の麗蒔を見て、そのあまりの仕打ちに息を詰まらせる。
「酷ぇ…クソッ!至急医者を呼べ!」
 祥之が早急に医者を手配するが、その時間の長く感じる事といったら無かった。
「麗蒔…しっかりしろ麗蒔!」
 利華の声にも祥之の声にも麗蒔の反応は無く、意識は戻らない。抱いた体温は先程よりも随分冷たくなっている。唇は紫色に変色し、このまま意識が戻らなければ危険な状態。体力と血液を失い過ぎていて、麗蒔は肉体的にもう限界だった。
「大丈夫…大丈夫だ利華、死なせない…死なせないから…!」
 祥之の腕が麗蒔を抱く利華の背に回され、ぎゅっと利華を包み込んだ。本当は、祥之は麗蒔を抱きしめたかった。だけど今麗蒔を抱くべき人は自分ではない。そう思い、祥之は利華ごと麗蒔を抱きしめる。
「連れて来ま…」
「こっちだ早く!!」
「は、はい!」
 漸く到着した医師は、急いで麗蒔に何かの薬を注射する。これで意識が戻らないのであれば、覚悟して欲しいというのだ。
「起きろよ…麗蒔…!」
 強く抱きしめた自分の腕の、なんとも無力な事か。麗蒔の体温を上げてやるのにも微々たる力。利華は祈るように麗蒔に話し掛ける
「麗蒔…お前は人殺しなんかじゃなかったんだ…何も、罪を犯していないんだ…もう誰もお前を狙ってなんかいないんだ…もう堂々と外を歩けるんだぜ…?ライブハウスだっていけるし喫茶店だって…どこだって……なぁ麗蒔、一緒にステージ立つって…いったじゃねぇかよ…約束したじゃねぇか!」
 利華の流した大粒の冷たい涙は、麗蒔の体温を奪うだけで何の効果も示してはくれず、腕のなかのその人が次第に重くなっていくような感触に、利華は途方に暮れる。
(死なせない…!)
「麗蒔…死ぬな…!」
 利華が祈りを込めて冷たい体に口付けをおとした。まるで自分の生命を分け与えるかのように。長くゆっくりと、触れるだけの口付け。始めて交わしたあの日のように。
 ピクン、と腕の中の体が動いた。
「!」
「…………ん……利……華…?」
 麗蒔が僅かに呻き、うっすらとその重い瞳を押し上げる。血の気のなかった肌がほんのりとピンクに色付き、生命の美しさを見せつけ始める。
「麗蒔…!」
「…利…華…」
 しがみつくように麗蒔に抱きついてくる利華に、麗蒔はゆっくりと腕を回した。利華の体温を少しずつ自分のものにするように、麗蒔の体温は暖かみを取り戻していく。
「よかった…意識が戻ったんだな麗蒔…。」
 脇で見ていた祥之は、その様子に涙を浮かべながら呟いた。利華に回されていた麗蒔の手がその声にピクリと反応し、その首をゆっくりと祥之に向けた。
「祥…之…どうして……?」
「どうして…って麗蒔、助けにきたんだよ?ちょっと遅くなっちゃったけど…。」
 祥之は目尻を袖で拭いながら麗蒔に笑いかける。
「どうして……どうして…?俺は…祥之を……殺そうとしたのに…どうしてそんな俺を…!?」
「いいんだよ麗蒔、もういいんだ…」
 祥之は今にも泣き出しそうな麗蒔を抱き竦めると、利華の腕の中のその頬にあやすようにキスをした。
「……どう…して…?」
「君が好きだからだよ。…大好きな人だから、どうしても助けたかったんだ…。」
「………祥之……。」
 麗蒔の零した涙の跡に、祥之はもう一度キスをした。
「……。」
 不思議と、利華はこの光景を見ていても嫌な気分はしなかった。誰かが麗蒔に触れるのは見るのも嫌だったのに、この時は嫌な気はしなかった。母猫が、傷付いた我が子の傷を嘗めてやっている位にしか見えなかった。それは、とても暖かい光景に感じられた。
「…意識が戻ったなら…とりあえずは大丈夫、上に運んでちゃんとした治療を施さないと!」
 医者は、麗蒔の生命に危険は無くなったものの、傷の容体は安心できないとして、麗蒔をすぐに運び出すよう指示した。
「ああ、行こう。」
 祥之が自分の上着を麗蒔に被せてやると、利華は麗蒔を抱きかかえて立ち上がった。利華だって怪我人のハズなのだが、自分の傷の事なんてもうほとんど忘れている。
「あ……待って!………殺さないで…!」
 突然、利華が数歩歩いたところで麗蒔が震えた声で言った。
「…もう大丈夫だよ麗蒔、誰もお前を傷つけたりしないから…。」
 麗蒔がまだ恐怖から解放されないでいるのだろうと二人は思った。これほどの目にあったのだ、恐怖の影がなかなか消えないのだろう。利華が麗蒔の頭を撫でながら優しく話し掛けてやる。が、麗蒔は首を振って否定した。そうじゃない、と。
「あの人を…殺さないで…」
「え?」
 利華と祥之は、同時に後ろを振り返り押し黙った。すでに硝煙も消えた銃を握りしめたままのD・Kが、血の海の中で眠っていた。麗蒔を、長年苦しめ続けていた男が。
「助けたいのか…あんな男を。」
 あれほど、殺したい程憎んでいたその対象を。麗蒔をペット同様に扱い、こんな目にあわせた張本人だというのに。
「大…嫌い…でも…俺の恩人に…変わりないんだ……。」
 送り込まれた刺客が彼じゃなければ、確実に殺されていた。彼が自分を淫売として育てなければ、確実に殺されていた。今、ここにこうして自分が生きている事に、この男の存在を無視する事は麗蒔には出来ない…出来ないのだ。
 麗蒔自身、不思議だった。自ら命を奪おうとさえ考えていたその人なのに、今は、彼を…死なせたくないと思う。彼の過去が自分と同じだった事を知ったからでも、自分の伯父だからでもない気がする。もっと、もっと大きな感情。
「……こんな奴でも…恩人って感じるのかよ?」
 祥之は麗蒔の今までの育てられ方に、この男に対して麗蒔が情愛を持って接していたとは思えない。いつも暴力と権力で無理矢理ねじ伏せられていたようにしか思えない。そんな男に麗蒔が恩を感じているなんて、不思議でしかたなかった。
「だって…」
 麗蒔は利華の首にまわしていた手を片方、祥之にのばした。祥之は大切なものでも受け取るように、その手を両手で大事に包み込む。
「アイツがいなきゃ……利華にも…祥之にも…会うことなんて…出来なかったんだよ…?」
 麗蒔は利華にばかり向けていた弱々しい笑顔を祥之に向け、包み込むその指の一本を握りしめた。
「麗蒔…。」
 祥之は戸惑う。
「………。」
 利華は、きゅっと下唇を噛み締めた。
 アイツは麗蒔を苦しめた、自分に本当の恐怖を味わわせた。最悪に、ムカツク態度ばかりとりやがる奴だった。だけど…だけどアイツは最後に…。
「……祥之…奴を死なせないでくれ……俺からも…頼む!」
「え!?」
 意外な事に、利華からもその言葉が祥之に向けられた。利華の中には、麗蒔がそう望むからというだけではなく、麗蒔とはまた違った感情が隠っているようだった。
「………。」
 祥之は悩んでいた。祥之はこの組織の当主として全ての部下に公平に接する義務があった。その祥之の立場から判断して、内部混乱を起こした因子に情けをかける判断は間違っている事だった。ただ、このD・Kという男が前任四代目の時にその手腕を振っていた実力者だという背景も考慮に入れなくてはならない。その功績と、今回の騒ぎの責任と、そして祥之の私情、この三つのバランスが祥之を悩ませる。
「…祥之様…たぶんもう、無理です。」
 麗蒔の為に呼んだ医者は、D・Kをちらりと見ると小声で祥之にそう告げた。
「……るさい…ッ!うるさいッ!お前医者だろう?なんとかしろ!絶対死なせるな!!」
「は…はい!最善を尽くします!」
 祥之の決断に医者は驚いたが、我等が主人の絶対的直令には全力をつくし従うしかなかった。死体同前のD・Kの体は直ぐにどこかに運ばれていく。
 そしてM2はD・Kとはまた別の場所に運ばれていった。
「ありがとう…祥之……。」
 麗蒔は安心したようにそう言うと、またゆっくりと眠りに落ちていった。先ほどのような死の淵に溺れるような眠りではなく、暖かみのある眠りに。
「とにかく早く上へ運びましょう。」
「いい、触るな!俺が運ぶ!」
 麗蒔を運ぼうとする数人の手を拒み、利華は壊れ物でも運ぶように大切に麗蒔を抱き地上へと昇っていった。早急に怪我人の運び出された地下牢にはすでに誰も人影はなく、麗蒔の流した幾つかの血痕、広がる大きな二つの血の痕のみが残された。

 そして、その奥に血まみれの拉げた銃弾が一つ、壁にめり込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「もう、大分いいのか?」
「うん。」
 あれから、随分経っていた。
 祥之の紹介された病院に入院した麗蒔は、日に日に回復していくのが目に見えてわかった。むしろ、こんなに血色のいい顔をしている麗蒔を見るのも初めてかもしれないくらいだ。
 脚の傷は腕のいい医者に手術を施され、日常生活に問題はない程回復した。が、その傷痕は隠せないと言われた。
 内臓の損傷は出血のわりに思ったよりは酷くはなく、時間はかかるがちゃんと完治できるそうだ。ただ、当たり前だが、今後そういう行為は一切禁止された。それに麗蒔だって、二度とそんな気にはならないだろう。
「明日、退院してもいいって。」
「そっか、よかった…。」
 利華は見舞いの果物を剥きながら麗蒔の傍らに腰掛けた。 利華はもともとの生命力の強さからか、傷の回復は人一倍早く、麗蒔より随分前から以前のような日常生活に戻っていた。 以前と違うのは、通い続けた場所が病院に変わった事。バイト先の店長には、無断欠勤していた間の本当の事は言わず(というより言えず)怪我の事は喧嘩でやられた、とだけ言っていた。そして何事も無かったかのように、利華には平穏な日々が流れていた。
「今日は良い天気なんだね。」
  麗蒔は窓の外を見て、その日ざしに目を細める。窓際の日当たりのいいベッドで、麗蒔は少し日に焼けたみたいだ。透けるようだった白い肌を健康的な色に染め、長く伸び過ぎた髪をかきあげる仕種に暫し目を奪われる。
(……綺麗…だ。)
 利華は素直にそう思った。それは以前とはまた違う、健康的な美しさだった。
 麗蒔は利華がそんな自分に見とれているとは思いもせず、落ち着いた声で聞いた。
「……アイツ……どうなったのかな?」
「!」
 麗蒔の指すアイツ、とはあの男しかいない。あの時で既に瀕死だった。その後どうなったかは、利華も祥之から聞かされていなかった。自分からも、なんだかどうにも聞けない。
「…さぁ…でも祥之が死なせないって言ったんだから、きっと大丈夫だよ。」
「ん…そだね。」
 利華は無理に安心した笑顔を作ろうとする麗蒔の背に手をかけ、ポンポンと軽く叩いてやる。
「…ね、利華……ここを出たら…俺どうしよう?」
 麗蒔は急に心配そうに利華に聞いてきた。麗蒔を縛り付けるものはもう、なにもない。だが麗蒔は、そんな状態に自分が置かれた経験がないのだ。どうしていいのか、何をしていいのか、戸惑う。自由という戸惑い。
「…決まってんだろ、俺と…来るんだろ?」
 利華は麗蒔の首に腕をまわし自分に引き寄せると、確認するように問いかける。今更、拒まれる可能性の心配はしていない。
「うん……。」
 麗蒔はゆっくりと頷き、その顔を笑顔にかえた。利華がそう言うのはわかっていたから、利華がそう答えてくれるのを待っていたから。何所に行くとか何をするとか、そんな細かい事はどうでもいい。利華と一緒に行くのだ、それだけでいいのだから。もう、自由なのだから…。
「なぁ麗蒔…俺さ…」
 利華が何かを言いかけると、遠くの割には大きな物音がその言葉を遮った。人の声のようだ。
「…何だ?何か外が騒がしいな…。」
 静かな病室に近付いてくるバタバタとした足音、そして…、
「旦那様ッ病院で走ってはいけませんッ!」
「うッるせえなッ!こんなトコまでついてくんなーッ!てめぇだって走ってんだろうがよッ!」
 聞いた事のある怒鳴り声。
「祥之…」
「だな。」
 二人は賑やかな来客に顔を見合わせて笑った。そしてその足音がいっそう強く近付いてきたかと思うと、麗蒔の個室のドアが勢い良く開いた。
「麗蒔、退院出来るンだって?」
「おはよう祥之、そうだよ。…でももうちょっと静かにね?他の患者さんも入院してるんだから…。」
「そっか、ごめんごめん、とにかく、おめでとう麗蒔!…あ…あの、これ…」
 祥之は息をきらせながらそう言うと、持ってきた大きな花束を照れくさそうに麗蒔に渡した。
「ありがとう祥之。退院祝い?」
「お祝いと、その…謝罪も含めて…なんていうか、形にしたかったから…」
「謝罪?」
  祥之は顔を赤らめたまま黙って頷いた。
「俺…兄弟が誰か生き残っていたら…どうしても伝えたい事があったんだ。俺のせいでみんな…その、
謝りたくて…だから…」
  祥之はこんなことになってしまったのは、まだ自分のせいだという気持ちから抜けられないんだろう。
「俺…まだ何も…」
「もういいよ祥之。」
 麗蒔は何か言おうとした祥之の言葉を止めた。
「……俺にはもう、祥之の気持ちは伝わってるよ。…きっと、みんなにもね?」
「…………ありがとう。」
  自分に向けられた『兄』の笑顔が、全てを許してくれたように感じられた。そして祥之は泣きそうな顔で、笑った。
「おいおいせっかく明日退院なのに何しんみりしてんだよ?」
  半分気を使って蚊屋の外の利華が、ちょっと妬いた様に茶化して口を挟んだ。辛気な雰囲気を察して彼なりの気を使ったのだ。
「そう、そうだったね…とにかく退院おめでとう!」
「うん、ありがとう」
 麗蒔は明るさを取り戻した祥之に、優しく微笑みを返した。
「あ、それから大事な事、今日はこれを麗蒔に渡そうと思って来たんだ…はいコレ、これからは、必要になる物さ。」
  祥之は思い出したように言うと、後から病室に入ってきたスーツ姿の男から茶封筒に入った書類の束を受け取り、麗蒔に渡した。
「何?」
 麗蒔はその中身の幾つかを引っ張り出した。何やら難しい厳つい書類だらけだ。その書類の隙間から、何かの手帳の様な物が滑り落ちた。それには保険証や免許証やパスポート、果てはキャッシュカードまで入っていた。
「……これって……ひょっとして俺の身分証明書…?」
「そう!…だってさ、調べたら麗蒔の存在ってこの国から既に抹消されてるんだよ、完全に死んだ事にされちゃってんだよな。…だからさ、必要だと思って用意したんだ!全部揃えるのに結構時間かかったんだぜ。」
  麗蒔の、存在の証の書類の束。裏の世界ではなく、表の世界で堂々と暮らしていくには必要不可欠な紙屑。これから新たな人生を歩んでいく為に、祥之が用意したのだった。
「……ってことは、コレ全部偽造なんじゃ…フがッ!?」
 言葉途中で利華はスーツの男に羽交い締めにされた。
「何か申されましたか利華殿?」
「んがッ…!」
  口を押さえ込み、男はギリギリと利華を締め上げた。
「あーもー放してやれって!いいじゃんここ個室なんだし!」
「……わかりました」
  祥之が呆れ顔で男に命令すると、利華はようやく解放された。
「偽造って…偽物なんでしょ?…バレないかな?」
 偽物と知って不安そうな表情を浮かべた麗蒔に、祥之は自慢げに胸を張って言った。
「俺を誰だと思ってンの、天下の祥之様だよ?ウチのブツがバレる訳ないっしょ?なにしろ国がバックにいるんだからね!…っとコレ内緒だっけか?」
「旦那様ッ!」
「はいはい、わかってる言い過ぎたってば、うるさいなぁ。」
  スーツの男が祥之の言動に声をヒステリックに張り上げる。この男、祥之といるといつもこんな感じなんだろうか。きっと苦労してるんだろう、お気の毒に。 それにしてもよくこれだけ偽造…というか用意してくれたものだ、麗蒔は始めて手にする自分の証を珍しそうに目を通している。
「……!」
 そして、ふとその名前が気に止まった。
「……でもコレいいのかな?…名前が『麗蒔』だけど…」
「え?何か問題ある?」
 漢字でも間違ったかと、祥之は麗蒔の手元を覗き込む。でも間違ってなどいない、ちゃんと『麗蒔』ってかいてある。
「…………麗蒔って、本当の名前じゃないよ。」
「えーーーッ!?」
  祥之と利華の驚きの声が重なった。
「本名じゃないの!?」
「うん…麗蒔って、なんてゆうか……商品名だから…。」
「商品名〜〜!?」
「そういや…」
  利華は麗蒔との過去の会話を思い起こした。たしかアイツに付けられた名前だとかなんとかいっていたような…その時は他の事に気がいき過ぎていて、気にも止めていなかったが、今更そんな弊害が出てこようとは。
 利華と祥之は口元の引き攣った顔を見合わせた。
「…ってか、普通気がつくだろ!?お前んトコの組織ぐらいなら本名とか調べりゃ即わかるんだろ!?」
「知らねーよ!俺だって忙しいんだゾ!大体俺が作ってる訳じゃなし…どうなんだよ!?」
  疑問は伝言ゲームのように利華から祥之、そして祥之からスーツの男に向けられた。
「はい、そんな事はとっくにわかっておりましたよ。」
 視線を感じた スーツの男は一つせき払いすると、あきれ顔で答えた。
「なっ…なんで造る時言わねーんだよ!?」
  祥之の問いに、もう一つせき払いするとスーツの男は答えた。
「ちゃんと申し上げました。しかし旦那様はよく聞きもせずに『いいから麗蒔の証明書を作れ』と仰ったじゃないですか?お名前をいかが表記されますかとお聞きした時も『麗蒔に決まってンだろ!』と申されましたので、あくまでも『麗蒔』殿で証明書をお造り致しました。…別にこのような書類は本名でなくてはいけないと言う事はありませんから。」
  男の言っている事は、間違っていない。所詮偽造、名前を変えるのなんて容易い事。実際どんな名前だって構わないのだ。むしろ本当の元の名前よりも別の名前の方が都合の良い時だってある。男は素直に祥之の命令通り作成したのだ。
「かーーッ…なんだよ、結局俺のせいかよ〜〜ッ!?」
 祥之は碌に調べずにさっさと造ってしまった事を後悔した。右手で頭を抱えて掻きむしった。
「…という事は、この書類の束は全部…無駄?」
 本物と寸分違わず精巧に造られているその紙束を、少しもったい無さそうに利華が指でつまんだ。結構時間がかかったと言っていた、造り直したらまた結構時間かかるんだろう。
「…そんなことないよ。…いいよ、このままで…いや、このままの方がいいや。」
 麗蒔は散らばった書類を丁寧に集めると大事そうに封筒にしまった。
「でも…名前間違ってんだろ?」
  祥之がちょっとむくれて言い返す。どうせ悪いのは自分ですよ、と言わんばかりだ。
  麗蒔は首を左右に軽く振って、封筒を抱きしめた。
「間違って無いよ…だって、俺『麗蒔』だもんね。皆に会った時の俺は、『麗蒔』だったんだもん。わざわざ昔に戻る必要なんかない…俺、これからは…いや、これからも『麗蒔』で生きていきたい。」
 祥之に気を使ってそう言っているのでは無く、本心から麗蒔はそう言った。昔の名前なんて、利華に会う前なんて、祥之に会う前なんて戻りたく無い。今のまま、このままでいたい。
「…じゃ、今日から正式に麗蒔に改名って事か。」
 今まで麗蒔としか呼んでいなかったんだから、改名っていうのも変な感じだが、利華は冗談混じりでそう言った。
「そうなるね。改めまして、麗蒔といいます、どうぞよろしく…てかんじ?」
  麗蒔もそれにあわせて冗談っぽくそう言って利華と祥之に笑いかけた。
「本当にいいの?……そんならいいや、良かった!俺も『麗蒔』の方呼びやすいや。」
「俺だって今更『麗蒔』以外で呼べねぇって!」
「そうだよねぇ…」
 ようやく、祥之にも笑みがもどり一件落着。麗蒔だって今更本名で呼ばれてもしっくりこない。もう十年以上呼ばれてなどいないのだ。麗蒔は思った、一番多くこの名前を呼んでくれた人の思い出と共に、そんな名前があった事を記憶の中にしまって置く事にしようと。
「さて…と。じゃ、俺そろそろ帰るわ。」
 それから数分間他愛のない会話を交わした後、祥之は徐に立ち上がった。スーツの男がすかさず上着を差し出し、祥之は慣れた風格でそれに袖をくぐらせる。
「え、もう?」
「もう少しくらい居たらいいじゃねぇか、素っ気ねぇな。」
 久しぶりに病室に顔をだしたというのに、いくらなんでも短すぎるというもの。物を届けにきただけで、まだ殆ど会話らしい会話もしていないのに。
「このあとヤバい会議に出るからサ、俺が遅れるとアレだから。」
  祥之が屈託ない笑みで明るくそう言ったが、その笑顔が逆に麗蒔の胸に針を刺す。望んで今の立場になったわけではない祥之、…全て、自分の為に。
「祥之…」
「何?…何暗い顔してんの!?」
 急に眉を歪ませた麗蒔に、何か変な事言ったかと、祥之はちょっと驚いている。
「後悔…してるんでしょう?俺の為に……」
「はいはいストップ!言わないのそういうコト!」
  麗蒔の暗い顔の原因を把握して、祥之は麗蒔の言葉を遮った。
「だって…」
「麗蒔が酷い目にあったのって誰のせい?」
「え?」
「俺のせいでしょ。」
「違ッ…そんなんじゃないよ!」
  麗蒔が慌てて祥之の言葉を否定する。
「じゃあ今、俺がこうして五代目やってんのは?」
「俺のせい…」
「違う!」
  そこまで会話が流れた所で、漸く麗蒔の言葉が止まった。ある事に気が付いた。今、祥之と自分と、同じ事を言い合っていた事に。
「…な?同じなんだ、俺達同じなんだよ。自分のせいだってお互い思っててさ。そりゃ相手のせいだって思って恨んだりする瞬間だって勿論有るよ、だけどちゃんとそれは違うって否定出来る。迷惑かけてかけられて、お互い様だろ?だからもういいんだ。」
「祥之…」
「それに俺さ、今すげぇやりたい事があるんだ。だからさ…この仕事、嫌々じゃなく、本気でやってみようと思ってるんだ。」
  そう麗蒔に告げた祥之の瞳は偽り無く輝いていた。祥之が五代目を継いでからほんの短い期間しか経過していないが、その中で祥之はこの仕事に何か目標を見つけたのかもしれない。 いつも何かを探し求めていた少年の瞳は、いつしか何かを成し遂げようとする男の目に変わっていた。この世界を自分の手で何か変えてやろうと、輝いている。
「……旦那様、もう時間です。」
「うっさいなもう、わかってるってば!」
  時計を見ながらハラハラしているスーツの男が堪り兼ねて祥之に声をかけた。ふてくされ気味に返事を返すと、祥之は麗蒔の手をそっと握った。そして横で二人の邪魔をする事も無く、ただ黙って見ていた利華に声をかけた。
「……いつ、出るんだっけ?」
「…明日、麗蒔の退院を迎えに来たらそのまま行く予定だ。たぶん……もうこの町には戻らない。」
「……そっかぁ……。」
 明日、二人はこの町を離れ、祥之の知らないどこかへ旅立っていくのだ。この町では色々有り過ぎた、その方が…いいのかも知れない。だが祥之は、ここを離れる訳にはいかない身分、祥之にとって明日の別れは、永遠の別れにさえ似ているのだ。
「じゃ、しばらく会えないけど……元気で。」
 だけど、これで会えないなんて言わない。
「……祥之……祥之も体に気を付けて…。」
 握っていた手を肩に、そしてそのまま無言で抱き合った。
 ベッドから起き上がり見送りに出ようとする麗蒔を断り、祥之はスーツ男と共に病室を後にした。 寂しそうにその背中を見送っていた麗蒔の肩には利華の暖かい大きな腕がまわされ、その寂しさを埋めようとしてくれる。
「……兄貴を頼む…ってよ。」
「え?」
「すれ違い様に俺にそう言いやがった。顔真っ赤にしてな。」
「祥之…」
  直接呼んでくれる事の無かったその言葉。過去に一方的に祥之から麗蒔に発せられる事はあっても届く事のなかった言葉。
「…ったく、素直に直接言やぁ良いのによ…」
  利華がそう愚痴を口籠った時だった。
「兄貴ーーーッ!」
「!?」
  窓の外からでかい声が静寂を取り戻しつつあった病院に響き渡る。驚いて、麗蒔と利華は窓から身を乗り出した。
「祥之!」
「…んのアホ、病院だっつぅの…」
 同じように、何事かとあちこちの病室の窓から身を乗り出している視線の先に、病院の門の前からこちらに手を振る祥之の姿が見えた。その横でスーツの男が慌てふためいているのも見える。
「それじゃ…それじゃぁな、兄貴!」
  祥之が照れながら麗蒔をそう呼んだ。前に呼んだ時には、麗蒔の意識は無かったから、麗蒔の耳にその単語が届くのは初めてだった。その響きは嬉しくも有り、照れくさくも有る。
「俺ン家は兄貴ン家だからな、いつでも帰ってきていいんだからな!だから……だから…いってらっしゃい!!」
 祥之のせいいっぱいの送る言葉だった。さよならとは言わない。また会いたいから、また会えるから。
 すぅ、と麗蒔は大きく息を吸い込む。
「…いってきます!いってくるよ祥之!」
「麗蒔…!?」
  麗蒔が今まで聞いた事も無いような大声で元気に祥之に言葉を返し、病室の窓から手を振る。同じように下から手を振る祥之が、スーツの男達に抱えられて黒い車に乗せられ、その車が見えなくなるまで麗蒔は手を振り続けていた。その表情はとても晴れやかで、嬉しそうで、そして悲しそうだった。

 

 

「似合う…かな?」
「…麗蒔…その髪…!」
  翌日、麗蒔の退院を迎えに行った利華の前には、髪をばっさりと短くした麗蒔がいた。
「…切った…のか?」
「変?」
  しかも、今までの様に色素の薄い綺麗な茶髪ではなく、黒く染め上げている。今までの印象が強すぎて、別人の様に見えてしまう。いや、むしろ麗蒔はそうしたかったから、髪を切ったのかもしれない。でも、紛れも無くそれは麗蒔だった。
「髪は昨日利華が帰ってから染めたんだよ。ていうか、本当はもともとが黒かったんだけどね…今までがカムフラージュの為に染めてたんだ。だけど黒く戻したら髪伸び過ぎて、凄く重たい感じに見えたんだよね…だから看護婦さんに切ってもらったんだ。似合わねぇ、っていわれたらどうしようかと思ってるんだけど…。」
  利華はその麗蒔の髪に手を延ばし、指でサラサラと毛先を撫でた。くすぐったそうに麗蒔が目を閉じる。
「…いや、驚いたけど、ヘンじゃ無いよ。似合うとる!」
 利華にそう言われて麗蒔も嬉しそうに良かった、と言った。
 利華は、長い髪の麗蒔が正直好きだった。肩にかかる髪を色っぽいと何度も思った。見る者を誘う、色香を漂わせた麗蒔。好きだったその面影は今は薄くなってしまっていた。だけどそんな事たいした事じゃ無い。だって、麗蒔の外見が好きなんじゃないんだから。
 でも、なんだか髪型を変えた麗蒔は前よりも随分清純そうに見えて、男っぽく見えるようになったのに、それでも綺麗で、それが逆に利華をドキッとさせる。
「うん……いい…黒いの、ええわー…本当良い感じ。」
  改めてしみじみと言った利華が可笑しくて麗蒔が笑う。
「…なんか利華、言い方がすけべオヤジみたいだよ?」
「なッ…すけべはともかく、オヤジ言うな!」
「あ、すけべは否定しないんだ?」
 微妙な反論を返す利華に麗蒔はまた笑った。
「…で、もう準備の方は?」
  今日、退院する麗蒔を連れ、このままこの町を後にする。既に転居先に荷物を送り終えた利華は、簡単な手荷物のみの軽装だ。持っていく物は麗蒔のものだけだが、もともと麗蒔に私物は少ない。たいした量にはならないのだが、それでも小さな旅行鞄一つ分くらいはあった。
「これで全部か?」
「ん、…あ、ちょっと待って。」
  麗蒔は病室に飾られた花瓶の横にあった物を手にとった。
「…あ、それは…」
「これ…かけていくよ。」
  以前利華が麗蒔にあげた眼鏡だった。麗蒔は眼鏡を大事そうに磨くと、窓ガラスを鏡変わりにその眼鏡を身に付けた。 麗蒔が振り返ると、利華の前には随分と知的そうな青年が現れた。麗蒔の眼鏡姿は前に一度見ているのだが、髪型を変えたせいだろう、全然印象は違っていた。だがむしろ前よりも似合って見える。
「今朝、一至が届けてくれたんだ。」
  突然のバタバタした出来事で、店の地下に置きっぱなしになっていたのを今まで一至がずっと持っていてくれてたのだ。
「…一至か、どうしてるんだ?まだ続けてンのか?」
  もう全然あっていない。利華があの店に行かなくなってから、この病院でも一度も顔を合わせたことがない。麗蒔は何度か見舞いに来てくれているというが、時間帯があわない為か、利華とは久しくあっていなかった。まだあの店で働いているんだろうか。実際あの店自体、今はあるかどうかもわからないが。
「…一応、まだあの店続けてるんだって。」
「店…無くなってねぇんだな。」
「オーナーはあれから姿を見せてないらしいけど…でも一至が、殺したって死ぬような奴じゃないって、店があるって事は生きてるんだろうって。だからきっとあの人は大丈夫だったんだろうなって…だから俺、その事はもう考えない事にしたよ。」
「そうか…。」
  口下手な一至が、麗蒔の気を使って言ったんだろう事が感じ取れる。それは麗蒔だってわかって受け止めているんだろう。どちらにせよ、アイツの生死について、麗蒔は気にとめるのを吹っ切ったのに変わりはなかった。やるだけのことはしてもらったんだから、あとはもう…なるようになった事実をただ受け止めるしかないのだから。
 あ、と麗蒔は突然思い出したように勢い良く話し出した。
「そう!それでね、一至もうすぐ店辞めるんだって!借金が返せたからもういいんだって、一至凄い嬉しそうだった!」
 麗蒔が自分の事の様に嬉しそうに言った。いままで自分だけ自由になった事に、一至に対して少し引け目を感じていたのかもしれない麗蒔。逆に一至が自由になった時に、自分がまだ縛られたままだったら、こんな風には喜べないだろう。麗蒔には相手の喜びを共に喜んであげられる心の余裕が徐々に芽生えていたのだ。
「そっか、あいつも漸く自由になるんだな。」
  随分借金をしているみたいだった一至。漸く、自分の力でその全てを返済したのだ。 利華の助け舟を余計なお世話と跳ね返した男。プライド高くて我が強くて、そしてたいした男だ。
「それからもうひとつ…コレも持ってっていい?」
 麗蒔は、ベットの横に立て掛けておいた物を取り、愛しそうに抱きしめた。
「それは…」
 ひさしぶりにみたそれは、麗蒔のギター。愛用の古びたギター。形見のギター。
「一至…これもちゃんと取っておいてくれてたんだ、もう捨てられてしまったと思ってた…。」
「…良かったな。持ってっていいに決まってるだろ?」
「…ありがと。」
  たしかに邪魔になる大きさの荷物ではある。だけど、邪魔とかそんな単語じゃ表現できる代物なんかじゃない。麗蒔の大事な思い出。二人の出合いの思い出なんだから。
「時間まだある?」
「んー、あと30分くらいなら。」
「久しぶりに……弾いちゃおうか?」
「…えッ…今!?」
  …そう、ここは病院。だけど麗蒔はもう弾く気満々でギターをかかえて座っていた。
「〜〜〜っ、ま、いっか?」
  退院記念だ、周りの病室にはちょとだけ勘弁してもらおう…と利華は苦笑した。
  麗蒔は懐かしいその弦を弾き、狂いまくった弦を感覚でチューニングをすると曲を奏で始めた。始めて会った時に聴いた、あの曲だった。麗蒔の母親が創ったのだという思い出の一曲。
「俺、この曲好きだぜ。…良い曲。」
「俺も好き。……でも、今はもうひとつ凄く好きな曲があるんだ。」
  そう言って麗蒔は別の曲を弾き始めた。聞き覚えのあるこの曲は…。
「…俺の創った曲?」
「うん、俺、これ凄い好き…」
  祥之の部屋で、弾いた曲。会いたくて、会いたくて、泣きながら弾いた曲。この曲が利華を思いださせるから。
「……あ?今の所ちょっと違う。」
「…え?まじで!?」
  好き、と豪語したにも関わらず、その間違えを指摘され麗蒔はショックを受けた。
「そこマイナーじゃないよ、メジャー。」
「えーーッ!?絶対マイナーのほう良いよ!」
  病室にギタリスト的専門用語がとびかった。 作曲者が違うといっているのに、麗蒔は反論した。そうなのだ、麗蒔が今まで物悲し気で良い、と思っていた部分は実際はもっと明るい感じの音だったのだ。全然曲調が違って聞こえる。どこかで何か覚え違いをしていたのだろう。そして麗蒔はその覚え違いをしていた曲を、凄く好き、と感じていたのだ。
「こっちの方がいいよ!」
「ちーがうっつの!ちょっと貸してみ!」
 自分の曲なのに、麗蒔に否定され、利華はムキになって麗蒔からギターをもぎ取った。
「いいか、本当はこうだ!」
  利華は本家本元の曲を奏で始めた。
「えーー、やっぱ俺はマイナーのほうがいいと思…」
  それでも自分の曲センスを主張する麗蒔が、突如黙り呆然と利華を見つめた。
「…何?やっぱり文句有りなわけ?」
  利華は利華で、自分の曲センスを主張している。こっちの方が良い、と。だが、麗蒔が黙ったのはそんな事じゃ無かった。
「……利華…弾いてる……」
  利華がギターを弾いているのだ。麗蒔のギターを。
「何?弾くよギター。一緒にいつも弾いてただろー?」
「俺のギター…弾いてるよ?利華!」
「え?………!」
  利華は驚いて指を止めた。そう、これは自分のではなく麗蒔のギター。右利き用の、ギターなのだ。
「あ…うそ…みてぇ……まじかよ…」
  利華はゆっくりと今まで弦を押さえていた左手を開き、もう一度握った。他の指よりは少し鈍く遅れながらも、利華の薬指は確実にネックを握った。動くのだ、動いているのだ。
「いつから?今気が付いたの?」
「ああ、今だ…。本当、一体いつのまに…?」
  思い当たる事が直ぐには出てこなかった。ずっと麗蒔を助け出す事に夢中で、自分の指の事なんて忘れていた。悲観してるヒマもなかった。何か特別な事をしたわけでも…
「あ…!」
  利華はある事を思い出した。思い当たる事が一つだけ。
( 銃の射撃訓練…!)
  素人の利華は銃を片手で扱う事は到底出来ない。両手で握り、狙いを定め、発砲の衝撃をその両手でしっかりとささえ受け止める。その訓練を朝から晩まで何日も続けた。まともに的に当てられるようになるまで何度も繰り返した。休んでいるヒマなどなかった。あれが、知らずリハビリになっていたのだ。
「思い当たる事でも?」
「………いや、なんでだろうな、俺にもわかんねぇや。」
  利華は本当の事は麗蒔に告げず、独り腹の中で笑った。 皮肉なものだ、あれが自分の悲観の病魔を拭いさる事につながるとは、あんな事が自分を救ってくれる事になるとは。 逆に、あの程度の必死の努力が、もっと早くにあったなら、この指はずっと早くに回復していたモノなのかも知れない。悲観するだけで何もしようとはしなかった。リハビリは多少受けたが、どうせ治る訳など無いと腹では嘲笑っていた。そんな気持ちで適当に続けていても、回復などしないのだ。
「………良かったね…利華。」
「ああ……」
  利華は感極まり、口元を押さえ口籠った。
「ほら、でっかい体して泣かないのー!」
「誰がッ、泣いてねぇがッ!」
  少し涙声で怒鳴る利華の背を優しく摩り、麗蒔は利華の頭を撫でると胸に抱いた。利華の言葉では表現しきれぬ喜びが、麗蒔に伝わってきた。長い間苦しめられてきた其れから、解放された瞬間が。 麗蒔の、恨み、羨み、憎しみでしか満たされた事のない心が、喜びに満ちていく。包まれる事ばかり待っていた自分が、誰かを包んであげたくなれる感情に溢れていく。
「良かった…良かったね。」
  麗蒔は誰に言うでもなく、もう一度そう口にし出した。
   コンコン!
  突如、ドアがノックされ、返事する間もなくドアが空いた。
「麗蒔クン、そろそろお時間…あらやだひょっとしておばさん邪魔だったかしら?ごめんなさ〜い!」
 退院を見送りに来た看護婦が部屋の様子を見て二人をからかった。ここに入院している間麗蒔の担当をしていた中年の気さくな婦人だ。症状が症状なだけに、若い看護婦では麗蒔が嫌だろうと医者が気を使って年輩の方を付け、個室にまでしてくれたのだ。もっとも、その裏には祥之の口添えがあるのだろうが。
「あ、や、そんなんじゃ…!」
  さすがに公共の場での引け目と照れがある利華は慌てた。
「利華クン、だったわね?麗蒔クンの事たのむわヨ!それから…やっと回復したこんな状態なんだから、襲っちゃだめよ?」
「わ…わかってますって!…勘弁してくださいよもぅ…。」
  どちらにしろこの看護婦には二人の関係はバレバレだった。きょとんとしている麗蒔と対照的に利華は顔を赤らめ俯く。
「それじゃ麗蒔クン、体に気を付けて。」
「はい、今までありがとうございました。」
  看護婦は病院の門の所まで二人を送った。何度も振り返り手を振る麗蒔に、ずっと手を振っていてくれた。

 


 二人が向かったのは、この町一番の大きな駅だった。
「これに乗るの?」
「ああそうだ。」
 見た事はあったものの、麗蒔は汽車に乗るのは始めてだった。窓際に座ると、子供の様に外を興味津々で眺めている。
 暫くして発車のベルが鳴り、二人を乗せた汽車はゆっくり動き出した。次第に麗蒔の眼前に、客観的に見る事のなかった町の風景が映し出されてくる。
「この町、こんなに綺麗だったんだな…。」
「そうだな…なぁ、なんか腹減んねぇ?弁当でも買う?」
「買う!あ、俺買いたい、大丈夫覚えてるよ!」
  まわってきた弁当屋を大きな声で呼び止め、麗蒔は満面の笑みで弁当を二つ買った。周りの人が其れを見てクスクス笑う。
「…最初の教え方ちょっと誤ったかな〜…ま、いっか。」
 利華は苦笑しながらも、麗蒔に渡された弁当の包みを開けた。
 驚く程長閑で平凡な昼下がり。先日までの日々が全て夢だったようにも感じさせる。こんな当たり前の事が、当たり前じゃなかった日々が今となっては懐かしいとさえ思える。
「今度行く所はどんな所なの?」
「行ってみなきゃわかんねぇさ。」
「…そだね。」
  窓の外を流れていく慣れ親しんだ町の見なれない景色に、麗蒔は手を振っている。この街に、別れを告げているんだろうか。
「もうここに戻ってくる事はないんだろうな…なぁ、やっぱり祥之に…って…麗蒔?」
  汽車がスピードに乗り出した頃、麗蒔は突如その窓を全開に開けた。車内に強い風が吹き込んでくる。麗蒔はいつのまにか病室から持ってきた昨日祥之にもらった花束を抱えていた。その花束を大事そうに一度抱き締めると、窓の外に差し出す。
「な…ソレ捨てんのか!?せっかく祥之がくれた…ちょッ…危ないって麗蒔!」
 半分身を乗り出した麗蒔の体に利華は慌ててタックルした。
「違うよ、あげるんだ。…大丈夫だよ。」
 利華に笑ってそう言うと、麗蒔は独り言の様に空に語り出した。
「…一人だけ生き残った事を許して下さい…。」
「麗蒔…?」
 麗蒔は続けた。誰かに語りかけるように。
「充分罰を受けました…充分すぎる罰を与えました……だから…もう彼を、恨まないで下さい。」
  麗蒔は許しを乞うように、何かに語り続ける。
「これは彼の気持ちです……どうか受け取って。」
  麗蒔は握っていたブーケのリボンを解き、手を開いた。 ゴウ、と風が渦を巻くようにその花を空へと巻き上げる。花は一輪残らず空へと消えた。不思議と、地に落ちる事無く、天高く舞い上がり見えなくなった。
 なんだかとても不思議な光景だった。
「……ふぅ。」
  麗蒔はホッとしたような溜息を付くと、徐に窓を閉めた。そして振り向くと、その一部始終を見ていた利華が呆然としている。
「……なぁ麗蒔、お前ひょっとして……見えんの?」
 利華は恐る恐る麗蒔に聞いた。
「何が?」
「あ、いや、やっぱいい!な…何も聞かねぇ!俺そういうのは苦手…遠慮しとくわ…。」
 利華はブルッと馬のように首を振ると、何事も無かったように椅子に座り直した。
「変な利華。」
  麗蒔はそんな利華を見てフフッと笑った。
「それにしても…今日は良い天気だねぇ…。」
「…だなぁ。」
  心地よい揺れと暖かい日ざしは、いつしか眠気を連れてくる。それは二人にとて例外ではない。無言の空間ですら、それを心地良く穏やかに感じさせる。
「ねぇ利華、向こうに着いたら……利華?」
  話し掛けた麗蒔の肩に重みがのしかかる。利華はいつのまにか麗蒔の肩に寄り掛かり眠りに堕ちていた。
「しょうがないなぁ…。」
 そう呟きながら一人で窓を流れる景色に見入りながらも、麗蒔もいつしかウトウトとしたまどろみの中にいた。そして麗蒔もまた、ゆっくり瞼をおとし利華の体にもたれ小さな寝息を立てはじめる。


(今夜からは…いい夢見られると良いね、祥之…。)
 

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