千と一夜の地下室

第三幕「見えない鎖」

 路地に人影が見えた。が、それは利華の知る影ではあったが、望む影では無かった。
「…一至か。」
「待ってても麗蒔、来ないぞ。」
 一至は挨拶も何もなく、単刀直入に用件を述べる。
「…で、なんであんたが来てんの?俺にそんなに会いたかったって訳でもないんだろ?」
「…くだらん会話をしにきたわけじゃない。伝言を頼まれた。」
「ほー…何?」
 一至は徐に利華に近付いてくると、急に鉄拳をつくり利華の顔を掠めた。
「!」
「…麗蒔に近付くな。」
「なん…!」
 てっきり、麗蒔の伝言かと思っていた利華は思いっきり油断していた為、突然の事に驚く。
「昼間勝手に会う事は許さん、会いたきゃ金払って店に来い。もし無断で密会してるのを見つけたらただじゃ済まさんぞ。」
「……てめっ…!」
 明らかな宣戦布告、利華の表情にも鋭さが宿る。
「……と、ボスがこう言ってる。鉄拳付きでな。」
「…ほーー穏やかじゃないのね…。」
 一瞬、一至本人の言葉なのかと思い身構えた利華だったが、ボスとやらの伝言と聞き、対面する男にたいする警戒を解く。しかし穏やかじゃない。まぁ、ああいう組織なんだし、ボスの一人や二人は居るだろう。しっかし穏やかじゃ無い。
「プライベートまで管理されちゃう訳?おたくの店は。」
「商品に無断で手を出されては困るんでね。」
「商品…か、別に手なんか出さねーよ…。」
「どうだかな…ま、そういう訳だ、悪く思うな。」
 立ち去ろうとした一至の手を利華が掴んだ。
「待てよ。」
「…何だ。」
 無表情のままの一至が振り替える。
「ヒマ…せっかく来たんだ、ちょっと付き合えよ?」
 利華はいつも麗蒔が腰掛けていた廃材に、どっかり腰を降ろした。
「………ふん。」
 一至は暫く考え込むと利華の横に距離を置いて腰掛けた。
「なぁ、ソレって店のしきたり?」
「何が。」
「人の隣に距離置いて座るの。」
「…そんなわけあるか。」
「ふーん…ま、ええが。」
 利華は立ち上がると一至に近付き、わざとすぐ隣にドカッと腰を降ろし、煙草に火をつけふかし始めた。一至は少し嫌そうな顔をしたが、動くのも面倒なのか動く気配はない。
「麗蒔さぁ…なんであの店いんの?」
「前も言ったろ、俺は知らん。」
「あんたは?」
 一至は少し眉を吊り上げて言った。
「お前に教える必要はない。」
「金?」
「………。」
 どうやらビンゴの様子。やっぱあのテの店に多いのは金関係。いろんな人間がいる、いろんな状況に置かれている奴がいる。驚きはしないが、それでいいのかと思ってしまう。
「他の方法とか考えなかった?」
「…俺には時間がない。条件が合うのはコレしかなかった。…俺の事は放っとけ。」
「あっそー。」
 あながち会話というにはどうも乱暴な言葉のやりとり。一至は人にどうこう聞かれるのは好きじゃないんだろう。
「…麗蒔もありがちな金絡みかな。」
「…それは無いだろうな。」
 意外にも否定する一至。
「だってあんた、理由知らないんじゃねぇの?」
「金だけは違うだろう、普通の借金位とっくに返せてる筈だ。麗蒔はもうかるく十年以上は彼所にいるんだぜ?もっとも『普通』の借金だったらの話だけどな。」
「じゅっ…!」
 利華の指から煙草がポロリと落ちる。アチチっと慌てて膝を叩いて火を消すと、もう一度聞き返す。
「十年…以上!?」
「ああ。少なくとも十年はいるはずだ。」
「十年…って、大体麗蒔って俺と同じ位なんだろ?…逆算してくと……って、ま…まじ!?」
 計算していくと…っていうかコレって犯罪だろー!?という年になってしまった。
「そういう事さ。」
 珍しい事じゃ無い、と一至は付け足した。
「それでも当時じゃ他にいなかったらしいから、かなりの人気者だったらしいぜ。ま、そのまま現在に至るってトコだな。」
「な…なんでそんなに…。」
「だから知らんって。」
「なんだよ情報が中途半端だぞ、あんた、使えねぇなっ!」
「お前に使われる気は毛頭無い。」
「…ま、そりゃそうだが。言葉のあやってもんだろうが。」
 あまり冗談の通じない奴だな…と利華は苦笑した。
「ああ、そうだ。」
 一至は更に思い出した様に付け足した。
「それでも味は落ちて無いから安心しろ。麗蒔はなにしろ名器だからな。絶品だったろ?」
 ポロリとまた利華の指から煙草が落ちる。
「アチチッ!!」
「またやってやがる…。」
 一至が横目で笑った。馬鹿にしたような薄笑い。
「っつうかんな事聞いてねぇッ!知らネェよそんなんッ!!」
  其れ程純な人間でもない利華が突然な色話に動揺するのは、それが殊更麗蒔の事に関するものだからか。
「なんだ?誰でもこれを一番に聞きたがるもんだが。」
「聞きたかねぇってそんな事!」
「へぇ…。」
 無関心を装っていた一至が少し利華に興味を示す。
「お前…ひょっとしてこの間何にもしてないのか?」
 この間の、麗蒔の霰もない姿を見せられ、その後麗蒔に会って、何もなかったなんて事は一至には信じられない事だった。
「しっ…してねぇよッ!」
「へぇ…。」
 一至は珍しいものを見るような目で利華を眺めていたが、急にその表情を緩めフッと笑った。
「…どうやらあんたを少し誤解してた様だな。」
「……あんたじゃねぇ、利華、だ。」
「利華、か…改めて、俺は一至だ。」
 一至が見せた皮肉めいた笑顔は思いのほか綺麗だった。
「ところで…麗蒔本当に来ないって本人がそう言ったのか?」
 それなりに会話が成立しそうになったところで、利華は話をいきなり本筋に戻した。さっきまで綻んでいた一至の顔も急に真顔にもどる。
「いや、本人が言ったわけじゃないが…来れないだろうな多分。麗蒔の監視は他の奴より厳しいから。」
 そして麗蒔は店のNO、1だから、と一至は付け足した。
「そっか…NO、1ってのも良いモンじゃ無いんだな…。」
 まぁまぁ予想はしてた答えに利華も然して驚く様子無く、暫し黙り考えこんだ。
「なあ、…あの店予約ってあんの?」
「あ?あぁ、あるにはあるが…。」
 まさか?という一至の表情。
「予約…頼むわ。とりあえず毎日。」
「おい…。」
「つーわけで任せたぞ。」
「オイッ!それこそ『アイツ』の思うツボなんだぞ?」
「いいじゃねぇか、はまってやるよあんたんトコのボスのツボ。俺これでもいらんもの結構余分に持ってんのよ。」
 利華の言う『いらんもの』が何を指しているかは明白で、一至は意外だ、という顔で利華を見た。
「…見かけによらんな…何をしたのかはしらんが…。」
「別に変な事はしてねぇさ。でもまぁ俺には不必要に多いからな、こういう時にでも使ってやらにャ…」
 利華はそこまで言ってふと、ある事を思い出した。この男が縛られている物の存在。まだ会って間もないけれど、ああいう不条理な金ってこういう不条理な所で清算してもいいかなと思った。
「……あのさー一至?お前一体どのくらい…」
「それ以上は言うな。」
 言いかけた言葉を一至に遮られる。
「自分の事は自分でする。俺は物乞いじゃない。」
 きっぱりと一至はそう言い放った。
「…ふーん…お前って世渡り上手じゃないのな。スゲェ頑固モンって感じ。」
「褒め言葉だな、ありがとう。」
  普通なら降って湧いたイイ話の筈なのに、この男、一至はその提案を見事に断った。それはなんだか見ている利華ですら小気味のいいくらいで、この男がどんな人間なのかという事を大いに物語っているといえるだろう。
「…たしかに、麗蒔の言ってた通り、あんたは変な奴だな。他の客達とはなんか違うぜ。」
 麗蒔が一至に俺の事をどういっていたかは知らんが、できればイイ奴とか、素敵な奴とか、素晴らしくカッコイイ奴とか、そんなふうに麗蒔に思われていたかったかも。
「それって誉めてんの?」
「いや全然。全く誉めて無いぞ。」
「…あっそう…。」
 こいつわざとこういう言い方するんだろうか。なんかムカツク…。利華は笑いを引き攣らせた。
「でも悪く無いなあんた、いや、利華だったっけか。麗蒔が人の事をあんな可笑しそうに話してるのって初めて見たんだぜ俺。ああ、コレは少し誉めてやってるからな。」
 やっぱり、なんかムカツクかもこいつとの会話…そう思いながらもあいかわらずのペースでくり出される毒舌にも少し愉快になって利華は薄笑いを浮かべていた。つられて一至も笑っていた。はじめて会った時に感じた壁のような張り詰めた物は、もう無くなっているように見えた。
「人の事って、俺の事をか?」
「ああ、麗蒔は人嫌いだからな。その麗蒔に認められたってことなんだから、たいしたもんだぜ。」
 不意に一至の顔が曇っていく。
「麗蒔は…俺の事を楽しそうに誰かに話したりする事なんてあるんだろうか…?」
「………。」
 利華は何も答えなかった。あまりたくさん喋った訳ではなかったが、麗蒔との会話には誰も出ては来なかった。だから一至の存在だって実際会ったあの日まで知る由もなかった。でもそれって自分の事を知られたく無いから自分に関する周りの事一切言わなかったんじゃないのか?って気もする。 しかし一至にはそういう考えはなさそうだ。どうやら自分は麗蒔に認められて無いのでは、と思い込んでいるようで。
「…ったく、お前の方こそ親友を信じて無いんじゃねぇの?」
 角の立たない様おどけて茶化す利華に、一至は思いのほか真面目に切り返す。
「…親友なんかじゃない、麗蒔は俺を親友だなんて思って無いのさ。」
  言って一至は下唇を噛み締めた。その表情は寂し気で、さっきまで小憎らしく思わせたその相手の、同情心を煽るには充分すぎた。
「麗蒔がどう思ってるかなんてのは所詮麗蒔にしかわかんないんじゃないの?端から見りゃ結構仲良さそうだぜ?あんたらは。」
  二人の事を多くしるわけじゃないから、確信に迫った発言は出来ないけど、利華はあくまで客観的に意見を述べる。あの日見かけた二人の姿は利華も嫉妬心を抱くほど親し気だったのだから。しかし一至は首をゆっくり左右に振った。
「……俺は、麗蒔を抱いた。」
「はい?」
 突拍子もない一至の答えに、返事した利華の声は思わず裏返っていた。
「俺を信用してくれていた麗蒔を裏切ったんだ、俺が麗蒔に犯した罪は消えない…だからあいつは絶対に俺を認めないし、許さないだろう。どんなに親し気に会話を交わしてもその壁は消えないんだ。」
 一至の寂しそうな暗い瞳は後悔を匂わせていた。
「一至…お前…」
「……さて…俺、もう帰らなきゃ。」
 暫しの空白ののち、切り出した利華の言葉を無視し、溜息まじりで一至はたちあがると、ストンと廃材から飛び下りた。
「一至。」
 もう一度、利華は一至の名を呼び言った。
「麗蒔の事、好きなんだな。」
 一至は戻ろうして抜け道のドアに手にかけたまま立ち止まる。
「……さぁ、どうかな。」
  振り返りそう言った彼の顔は憎らしい程魅力的で、挑戦的にも見えた。

「利…華?」
  次の日、麗蒔の最初の客は良く見知った、そしてもう会う事もないだろうと思っていた男だった。
「どうして…もうここには来ないって…」
「今日は一般客、普通にお客さんなの俺。」
  目を丸くして驚いている麗蒔の隣に利華は腰を降ろした。
「この時間、俺はお前の時間を買ったんだ。だから俺の自由にしていいって事だよなぁ?」
 顔を背けようとした麗蒔の顎を掴み、強引に自分を見させる。客、という言葉に咄嗟に状況を推測した麗蒔は諦めた様に溜息を吐いた。
「…所詮あんたも同じか…どうぞお好きなように。」
 麗蒔は言いながら服の胸元に手を掛け前をはだけた。すると利華は慌てて麗蒔のはだけられた衣服を合わせ始めた。
「だっ…バカ!誰がンな事しろっつったよ!?」
「え?」
 予想外の相手の反応に麗蒔は逆に面喰らってしまった。唖然としている麗蒔を後目に、利華は持って来た荷物の中から徐にギターを取り出し麗蒔に向き直った。
「これから時間いっぱい俺のへったくそなギターを聴かせてやる。お前が来れないってんなら俺が毎日此所に来る!どうだ何か問題あるか?ねぇだろ?俺、お客様なんだもんなぁ、これなら誰も文句言えねぇよな?」
「な……」
 昨日、此所のオーナーから外出を禁止された。だけど麗蒔はそのことを逆に好都合として受け止めた。利華にあわせる顔がないから、どうしていいかわからず決めかねていた。自分の行動を他人に規制される事には慣れていたし、そのほうが楽でいいとも感じ始めていた。もし自然消滅にしてしまえるなら、それも良いだろうと思っていたのだ。それなのにこの男は…。
「……金、かかるんだぜ?」
「知ってる。」
「こんな湿気の多いトコ…ギターに良く無い。」
「だろうな。」
「利華…」
「何だ。」
「………。」
 麗蒔はそのまま俯いて黙り込んでしまった。利華はその表情を探ろうと利華が顔を寄せた時、麗蒔は細く弱い声で言った。
「…ごめんね利華…あり…がとう……。」
「え?何?」
 その余りにも小さな声は、利華の耳には良く聞こえなかった。
「ま、そんなことより俺の作った曲聴いてくれよ!イイ感じのが出来たからヨ。」
「…うん。」
  麗蒔はようやくリラックスしたのか、ベットにごろんと横になると利華に笑顔を向けた。
「…つってもまだあんまり上手くは弾けねぇんだけどよ…ま、まぁ聴けや!」
  利華はギターを弾きはじめた。

「…そろそろ時間だ。」
 麗蒔の言葉が二人を現状に引き戻す。現実逃避はおしまい、仕事に戻らなくてはならない時間。利華の辿々しい指使いで奏でられた曲すら名残惜しく思える程に麗蒔は重い腰をあげた。
「…しょうがねぇ、本日はおひらきか。」
 麗蒔に迷惑をかけてはいけない、利華も渋々ギターを片付け始める。本当は、まだ全然物足りないんだけど。
 利華の片付ける姿を見ながら麗蒔は思い出したように聞いた。
「そういえば…利華は俺がここから出られない事、どうして知ってたの?俺、言って無いのに。」
「親友の一至クンが知らせに来たぜ。」
「一至が!?…そう…。」
  利華の脳裏に昼間の一至との会話が思い出される。無意識の内に、いや、わざとなのかもしれないが親友の、なんてとって付けたように口走ってしまった自分。ただの親友であって欲しかったからそんな事を言ってしまったかもしれない。一至は否定したその言葉、麗蒔の反応は特別無い。本当に親友だからなのか?別にそんなことどうでもいいから?そんな二人の関係って、本当は何なのだろう。利華はなんだか腹の中がイライラしているのに気付いた。 なんでかな?こんなこと気にするなんて変だよ。
「…どうかした?」
「あ、…いや。」
  片付ける手が止まってしまっていた利華にかけられた麗蒔の声に我に帰り、再び手を動かす。
「一至と仲良くなった?何か喋った?」
「まぁ…なんとなく、いろいろな。」
「俺の事…なんか話した?」
「此所に来れなくなったから…って、言ってたけど?」
「そう…。」
  本当は、もう少し色々話したけど、あえて言う事もないだろうかとも思った。どうやら麗蒔は利華と一至が何を話していたか気になる様子。気になるのは利華も一緒だった。麗蒔が何をそんなに気にしているのかが気になるのだ。利華はなんだかまたイライラしてきた。一至が利華に何を言ったか気になるの?利華が一至に何を言ったか気になるの?そう思うと、聞かずにはいられなくなってしまう。
「そういやあいつ、何か昔のこと気にしてたみたいだったけど…あいつとなんかあったのか?」
  なんか、なんて、本当は何があったか聞いたんだけど。利華はさりげなく聞いて麗蒔の反応を見る。
「…なんで利華がそんな事聞くの?」
  麗蒔は、冷めた口調で言った。
「俺と一至のことだよ、利華には関係ないよ。」
  二人の間に何があろうと利華が口を挟む問題では無い。それはわかっていても、どういうわけか思わず聞いてしまっている利華がいた。
  たしかに、おっしゃる通り俺は部外者ですよ。
「そうだよな…俺には関係ないやな。変な事言ってごめんな。」
 大体こんな事を聞いて答えるはずもないよなと、今さらながら利華は思った。だが麗蒔はあいかわらず冷めた口調で言った。
「…でも知りたいんだったらいいよ、教えてあげようか?」
 知りたいのは山々だけど、そんなにあっさり麗蒔が話すとも思っていなかった利華は、麗蒔の反応に逆に驚く。
「……俺はね…一至に抱かれたんだよ。」
  ズキン、と利華の胸が痛んだ。知ってはいた事のハズなのに、麗蒔の口から聞くとまた重みが違う気がした。麗蒔を抱いた、と言った一至。一至に抱かれた、と言った麗蒔。合致する過去の事実。それは…二人の合意の上?それとも…?
「正確にいうと『抱かせた』かな…俺が誘ったんだよ。」
  瞳を見開いて驚く利華に、くすっと麗蒔は笑った。
「何をそんなに驚くの?」
「だって…それって……麗蒔…一至のこと……好き…だってこと…なのか?」
 俺、何聞いてるんだろう?なんでこんなにズキズキするんだろう?この感情は…?利華は口走った言葉に秘められた真意を突き止める事を躊躇う。
「そんなの、関係ないよ。」
 麗蒔は淡々と言った。
「好きとか嫌いとかそんなのはどっちだって関係ない。俺はね、誰とだって寝るんだよ。そう、例え相手が…一至だって…ね。」
 そう言って薄笑いを浮かべた麗蒔の顔は、すごく綺麗なのに、なんだか恐ろしくみえて…利華の知らない麗蒔の顔だった。
「ほら、次の客来るから!」
「あ…う、うん…。」
  なかば追い出すように麗蒔は利華を廊下に押しやる。勢いに圧倒されてそのまま歩き出そうとした利華。と急に、追いやった本人、麗蒔が帰りかけたその背をつかんだ。利華が振り返ると、不安そうな麗蒔の顔がじっとこちらを見ていた。 あぁ、と利華がその意味に気付いて微笑む。
「また明日、来るから。」
  ホッとした表情に戻った麗蒔はいつもの利華の知る麗蒔の顔に戻り、利華に微笑みかけた。一体、どちらが本当の麗蒔なんだろう?そんな疑問も、今は持ち帰るしか無い。 階段で一人の男とすれ違った。その男が麗蒔の部屋に消えていく。あの男はこれから麗蒔を…その先はもう考えたくなかった。

(嫌……。)
『麗蒔…どうして…?』
『…理由なんているの?ねぇ、俺を抱いてみたくない?』
『………そういう…ことか……。』
『ふふ…俺、発情期なんだよ今…。』
(違うよ一至…本当はこんな事したくない…)
『………わかったよ………麗蒔……………………ごめん…。』
『あ……一至っ………ん…ふぅっ…。』
(やだ……いやだよ…こんなのは……!)

 ホールに戻った利華は、客の皿を片付けている一至とふと目があった。一至も自分に視線を送る主の存在に気付く。
「本当に来てたんだな…。」
「当たり前だろ?だいたい予約とりついだのは誰だっけ?」
「…さぁな。」
 あいかわらずの小憎らしさの漂う無愛想さで、でも悪意は感じない口調の一至。一至を見てるうちにふと、聞いてみたくなった、例の事。だけどこんなこと、聞く方がおかしいのかもしれない。麗蒔の言うように二人の事は二人の事、口を出す事ではないと、利華は自分に言い聞かせた。

 

 次の日から利華は毎日麗蒔のもとに通い続けた。ホテルから安アパートに移り住み、此所に通う事が利華の毎日の日課になっていた。ギターを弾いたり、他愛もない日常会話をしたり、ただそれだけのために毎日通った。最近は麗蒔も自分のギターを持ち出してきて一緒にギターを弾いたりもする。
「ほら麗蒔、おみやげ。」
「何?」
 利華はバイト先から貰ってきた古い雑誌をよくおみやげに持ってきていた。ここに殆ど監禁状態になっている麗蒔は外のことを殆ど知らずにいる。訪れる客とも、ろくに会話もせずに事に移るため、麗蒔にとって外界の事を知る唯一の手段はこうして利華と過ごす雑談と数冊の雑誌のみだった。
 ココ最近で気付いた事が、麗蒔は本当に無垢だと言う事。というよりはむしろ…無知。その実力とは裏腹にギターの知識はおろか、一般常識すら欠けているところがあった。まるで麗蒔の知識はある一定年齢で止まってしまっているみたいで、ギターの腕だけが際立って成長しているものの、後は子供並みなのだ。  実際、前に一至が言っていた事が事実ならば、麗蒔は幼くして此所にいれられ、その後は教育というものを一切受けていないのだから当然といえばそうなのかもしれない。利華はそんな麗蒔を不憫に思った。自分と同じ位の年だろうに、ろくな知識を持たない麗蒔。このままでは、一人で生きていくことなんて出来ないだろう。そう、こんな商売に身を投じる事ぐらいしか…。
 ここにいれば知らなくてもいいこと、でも外界へ出れば絶対に必要不可欠な事。此所を辞めても、それでもなんとか生きていけるように、利華は麗蒔に知識をつけさせようと思った。いつの日か絶対、ここから麗蒔を外に連れ出す時のために。そんな利華の気持ちはあまり麗蒔に届いてはいないようで、麗蒔はお勉強が嫌いのようである。難しい話や活字はお好みではないようで、前途多難だ。
  今日持ってきた雑誌は数冊、週刊情報誌とそれに音楽系の物、中でも麗蒔はギターの雑誌が気に入った様だった。パラパラと雑誌をめくる手を止め、利華を見た。
「ね、利華、チョーキングって何?」
「えーっと、指でこうやって…って、麗蒔いっつもやってるアレ、アレの事だよ。」
「あぁ、前に聞いた音程をあわせるっていう…」
「それはチューニング!」
「んー…ややこしいね。」
「これも勉強勉強!」
  小首をかしげて眉を寄せる麗蒔の頭を利華は笑いながらくしゃくしゃ撫でてやる。出来の悪い息子みたいな、弟みたいな麗蒔。可愛くてしかたが無い。
「そういや麗蒔はギターを誰に教わったの?」
 利華はこういう環境にありながらあれだけのギターを弾くのは、誰か師匠でもいるのではと思ったのだ。
「弾いてるの見て覚えたんだよ。」
  麗蒔は雑誌をめくりながら答える。
「へぇ、誰の?」
「……母さん。歌手だったんだよ、もういないけどね…。」
「…そうなんだ。」
 雑誌を見つめながら、紙面よりももっとずっと遠くを見ている麗蒔。きっともう亡くなったんだろう、だからこんな環境に身を置くしかなくて…いや、これ以上この話題にふれてはいけないな…、と利華は思った。
 ふと、視線を彷徨わせた利華は、無言で本をめくる麗蒔の手首に紅い痣が浮き上がっているのに気付く。
「麗蒔…これは!?」
 驚いてその手を取り、痛々しい傷跡にそっと触れた。
「あぁ、客の中にサディストがいるんだ。いつものことさ…平気だよこんなの。」
 よく見ると手だけじゃなく足首や胸にもそれはあった。盛り上がった皮膚に生々しい程の肉の赤。裾の長い服だったのでいままで気が付かなかった。利華はいたたまれなくなり、包み込む様に麗蒔を抱き締める。
「利華?」
「麗蒔、もうこんな所やめて俺と来いよ…!」
 もう何度この言葉を麗蒔に向けただろう。こんな所から連れ出して、共に音楽の道を歩みたい、それが今の利華の夢。だけどそれは、幾度となく麗蒔に拒まれてしまっていた。
「俺……行けないよ。ここから出ちゃいけないんだ…。」
「どうして?お前だってここやめたがってるの、わかってるんだぜ?どうして!?」
  麗蒔は利華の手を優しく振り解き、首を横に振った。
「だめ…俺はここでしか生きられない…表に出ると俺は死んじゃうんだ……だって…俺、もう既に死んでるんだもの……。」
「な……何言ってるんだ麗蒔…?」
  麗蒔の言葉は理解不能だった。だって、麗蒔は今こうしてたしかに生きているのに。触れた指先から温かい体温と脈打つ鼓動が伝わって来るのに。
「…そろそろ時間だね。」
 麗蒔の言葉が胸に引っ掛かったまま、利華は部屋を出される事になった。結果としていつもと同じく拒まれた事に変わり無いのだが、いつもと違うのはその理由、怒られるからとか、簡単には決められないからとか、いつものような曖昧なはぐらかされかたではなく、それが意味不明なだけにかえって納得がいかない。
「麗蒔。」
  利華は戸を閉める前にもう一度麗蒔の名を呼んだ。
「…何?」
  下を向いたまま麗蒔は返事をした。
「俺のしてる事はお前にとって御節介でしか無いのか…?」
 無言で床を見つめていた麗蒔は、急に首を左右に振ると利華に飛びつくように抱きついた。
「れっ…麗…!」
  利華の鼓動が麗蒔にまで聞こえそうな位大きく脈打った。
「利華…明日も来て、明後日も…毎日会いに来て……絶対、お願い、約束…!」
「あ……あぁ、勿論そのつもりだぜ?」
 始めて麗蒔のほうから求められる抱擁。利華は恐る恐るその背に腕をまわした。
「利華…。」
 麗蒔は拒む事無くそれを受け入れ、利華の広い胸に顔を埋め、父親に縋る子供の様に甘えてくる。あまりにも無防備で愛しくて、利華は次第に高まる鼓動が抑えられない。心臓が脳にまで移動してしまったのではないかというくらい、利華の頭に直接ガンガン響いて来る。
「明日、また来るから…。」
「待ってる…。」
  見上げたその瞳が麗蒔の気持ちを全て物語っていた。麗蒔は利華を御節介だなんて思ってはいない、此所から出たい、…でも出られない。何かが彼を此所に縛り付けているが、その理由は利華には言えない…麗蒔の不可解な言葉もそう理解するしか無かった。 今はまだ時期が早すぎたのかもしれない、もう少し時間がたてば、麗蒔のほうから何か話してくれるようになるかもしれない、利華はそう思う事にした。
 しかし利華はここに来てもう一つ、避けられない現実に直面して、正直困惑していた。麗蒔に抱きつかれただけでこんなに動揺してしまう自分がいる、利華は自分の気持ちに嘘が付けなくなってきている体に困り始めていた。 麗蒔が自分を見る目は純粋だ、と思う。だけど自分はどうなんだろうか?麗蒔を見る目は本当に出会った時のままなんだろうか?
  利華の迷いは大きくなるばかりだった。

 全ての客が帰って、ようやく閉店の時間が来た。麗蒔はおぼつかない足どりで階段を上りホールに向かう。
「お疲れさん!今日も随分稼いだ様子だね?」
「………ん…。」
 麗蒔は無愛想に仲間達に言葉を返した。ホールの片付けをしていた一至が麗蒔に気付き、声をかける。
「麗蒔、腹減ってるだろ?何か食え。」
 一至は麗蒔の手を取りソファーに座らせた。
「いらない。」
「だってお前、朝から何も食べてないだろ?」
 一至は麗蒔の前に料理の皿を並べた。勿論今日の残り物だが。
「いっぱい飲んだ…お腹いっぱい。」
「……いいから、食え!」
 見るからに栄養が足りて無い麗蒔。こうして無理にでも一至が食べさせているからなんとか生きているようなものである。麗蒔もそれをわかってか、一至に言われると渋々ながらも料理に手を付けている。
 と、玄関の戸が揺れ、誰かが店に入ってきた。
「あっ……おはようございますオーナー!」
  その言葉を聞いた拍子に、麗蒔は摘んでいたフライを床まで落としてしまった。オーナーと呼ばれた男は真直ぐ麗蒔に近付いて来て隣に座った。
「いい子にしてたか?」
「……はい。」
 オーナーはシチューの皿に指を突っ込むと、その指を麗蒔の口元に押し付けた。麗蒔は無言でその指に舌を這わせた。吸い付くように丹念に、音を立てて指を嘗める。紅い舌先をちらつかせて丁寧に、いやらしく。オーナーは、いい子だ、いい子だと言いながら空いた方の手で麗蒔の背中や腰を撫でている。
「おいで。」
「はい…。」
 いわれるがまま、麗蒔はオーナーについていった。二人がホールから姿を消すと、その場にいた全員の口から溜息がもれる。
「あれぇ?今日オーナー来る日だっけ?散々仕事した後だってのにたいへんだよねあの子も。」
「ま、その分がっぽり貰ってるンだろうけど。」
「そうそう、役得だよねー、一至も負けないよう頑張んなよ?」
「………。」
 一至はそんな会話を聞きながら、無言で皿を片付け始めた。

  オーナーの部屋に入った麗蒔は、何も言われなくとも彼の前に膝まづき、彼の下半身を探り出すと奉仕を始めようとする。
「今日は、いい。」
  意外なオーナーの言葉に、内心ホッとしながらも、残念そうな顔を浮かべてみせる。
「最近変な奴が店に出入りしてるようだな…何者なんだ?」
「!」
  麗蒔の鼓動は急に激しくなる。誰の事を指しているのかはすぐにわかった。
「ただの…変わり者でしょう。」
「お前の事を何か探っているんじゃないだろうな。」
「……いいえ、何も知りません。ただの客の一人ですから。」
 麗蒔の鼓動は一向におさまらない。オーナーに目を付けられたら、取り返しのつかない事になるだろう事が麗蒔には予測出来た。
「…いい金づるですよオーナー、放っておいても何も問題ないと思いますが……それより…ね?」
  麗蒔は小首を傾げて唇を舐めてみせた。
「しょうのない奴だ…。」
  麗蒔はいつもの様に一糸まとわぬ姿になり、その裸体を余すところ無くさらけだした。
「…大人になったな、本当に綺麗になった。」
  オーナーは麗蒔の体を眺めまわすとベッドにすわらせ、脚を大きく開かせた。
「昔は泣いてばかりで随分世話を焼いたが、今では自分から誘うようになるのだからな。」
「そうさせたのはあなたですよ?」
「そうだったな…」
  オーナーは低い声で笑うと、硬くなった己をいきなり麗蒔に打ち込んだ。
「はぅっ!!」
 シーツを握りしめる麗蒔の手にギュッと力がこもる。体の中に侵入するあまりにも慣れた感触。幼い頃から、コレで育てられた。自分をこんな風にした、その人。
「最高だ…お前は、私が作り上げた中で最高の抱き人形だ…。」
「うっ……ん、んっ…あぁっ!」
  麗蒔の体を知り尽くした男は、麗蒔の敏感な部分を無駄一つなく攻めあげる。
「はあっ…あん!」
  乱暴に内側を掻き回され、麗蒔が耐えきれずあげた声は、不本意にも熱を帯びてたまらなく濡れていた。
「イイか?こんなのがイイのか?こんなに乱暴にされてもイイのか?本当に淫乱だなお前は…男を喰わえて悦ぶ淫乱野郎だ……ふふ…滑稽だ…!」
「あうっ…ううっ…」
  麗蒔は、誰よりもこの男に抱かれる事が嫌だった。この男は、ただ麗蒔の体を弄ぶに留まらず、いつも心にまでも侵入してくる。抱かれる人間の痛みを、鋭い程に見抜いて追い詰めてくる。その言葉の一つ一つは、自分がどれ程無力で無能な抱き人形かという事を認識させるかのように、麗蒔を押さえ付けるのだ。だから麗蒔はこの男の相手をしている時は、店で客の相手をしている時よりも強く思うのだ。こんな所逃げ出したい、と。
「…逃げようなんて考えるな。」
  だが、まるで心を読まれたかのようなタイミングで言われ、麗蒔が小さく身じろいだ。
「お前は既に死んでいるのだからな…もう表にお前の居場所なんてないんだぞ…それにお前が生きているなんてことがわかれば……どうなるか、お前が一番わかってるだろう?ここにいれば安全だ…ここにいれば、な。」
  麗蒔の上でしきりに体を揺らしながら耳元で優しく囁かれる悪魔の吐息。
「どうしても逃げたければ…私を殺して行くがいい…。そうだ、殺して行け……あの時の様に、あの女の時の様にな…。」
「!!」
 麗蒔の中の忘れたい記憶が、無理矢理に引き出される。全てを知っているこの男から、忌わしい過去の出来事を忘れさせまいとするかのように、いつも聞かされる拷問のような言葉。
「自分が助かる為なら…人を殺してもやむをえない…。そうなんだろう?たとえ相手が自分を愛していたとしても…」
「………。」
 体よりも心が苦しくて、麗蒔は声を殺して泣いていた。
「…さぁもう泣くな、その綺麗な顔を俺によく見せるんだ。そうだそれでいい。せいぜい可愛がってやるさ…お前が若くて綺麗な間はな。他に何を望む?お前は…所詮ただの抱き人形だ。」
  いくらこの男に忠誠を尽くして見せても、決して自分に愛情が注がれる事は無い。どんなに尻尾を振って足下に跪いても、二、三度頭を撫でては蹴り飛ばされる。
 愛人では無い、ペットでも無い、玩具…ただの玩具。
「……。」
 麗蒔は体の奥に熱い迸りを感じながら、目の前の男とは違う男の事を考えていた。

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