千と一夜の地下室
第七幕「罪の意識と響く音」
翌日のSCARLET BLUEはなかなかの客入りだった。
ここ最近は店の評判を聞きつけ遠方からはるばるやってくる者もある程で、中でも人気なのはやはり麗蒔と一至。気高く知的そうな外見に反し、激しく乱れ最高の味を誇る麗蒔。生意気かつ無愛想な態度が陵辱心を煽りたてる一至。二人は今や誰もが認める店の顔になっていた。今日も始めてここを訪れる男が、受付の前にやってきた。
「いらっしゃいませ、どなたか御指名ございますか?」
「……ここで一番評判の良いやつはどれだ。」
「…といいますと、えっと、こちらの…この一番右の写真の子になります!」
「…………彼奴に…似ているな……気のせいか…。まぁいいだろう、そいつを呼べ。」
男は受付に命令口調で言った。
「は…はぁ、いま接客中ですので少々…」
「さっさと連れてこい!」
あまりの男の声に店内が一瞬静まりかえった。受付の男もこの男にただならぬモノを感じたのか、慌てた様子で麗蒔を呼ぶよう指示を出した。暫くして、乱れた衣服のままの麗蒔が姿を現す。
「…何…?」
「ちょっと面倒なのがきてんだよ、適当に相手してやって!」
受付に言われ、視線の先にいる男を見た麗蒔は、背中に何か冷たい物が走った気がした。本能的に、その男の危険な香りを察知したのだ。
「お前か…ふん、あの方の好みそうな顔立ちだな…いいだろう、合格だ。」
男は麗蒔の顎に手をおくと、じっくりと顔を眺めまわし言った。ゾクリといやな寒気が麗蒔を襲う。
「こいつを貰ってくぞ。」
麗蒔の手を掴むと男はものすごい力で麗蒔を引っ張った。
「な…!?何すん…!」
店内がざわめいた。店員も客も誰もがその光景に注目した。
「ちょ…貰うって、お客様!?そういうお話はオーナーの留守中にはちょっと…」
受付が顔を引きつらせながら麗蒔を無理矢理連れて行こうとする男を制止すると、男は乱暴に振払った。
「オーナーか…俺は奴の知り合いだ。奴に伝えとけ、旦那様の要望によりお前の玩具を一つ貰っていくとな。」
「あ、あの…どういう事なのか当方ではさっぱり…」
「J・Jがそう言っていたと伝えろ、奴にはそれでわかる。文句を言うようならこれでも渡しておけ。」
そう言い放つと男は受付の胸ポケットに手紙の様なものを捩じ込み店内から消えた、麗蒔を連れて。
「…大変だ…お…オーナーに連絡を!!」
今日、珍しく利華は残業を強いられてしまった。 普段はたいして客も多く無い楽器店だが、今日はこれから新しくバンドを組むだかなんだか言う少年らが集団で来店し、その対応に追われる内に遅くなってしまったのだ。
(やっべー…もうこんな時間になっとる…!)
利華はバイトを終えると麗蒔の店へと急いでいた。 店に付くと中からなにやら賑やかすぎる話声が聞こえて来た。
(最近随分流行っているらしいからな…俺には関係ないが。)
幸い、毎日訪れてすっかり常連な利華は、店員たちとも顔なじみになっている為、こっそり優遇してもらってるのでいくら客が増えても麗蒔に会えなくなるという事はないのである。
店の戸を開けると何かがすごい勢いで利華にぶつかってきた。
「うがっ!?」
壁に背をぶつけながら見ると、ぶつかってきたのはよく見知った受付の男の体だった。
「何をやってるんだッ…!」
激しい剣幕で受付を殴り飛ばしていたのは利華の知らない男。
「…で、でもオーナーのお知り合いだと……」
(!!)
利華は目の前に立つ男を見た。この男が『オーナー』、この男が麗蒔の言う、『あいつ』!
「馬鹿者が…!」
オーナーがもう一度振り上げた手を、利華はとっさに掴んでいた。
「…何だ貴様は!?」
「そちらこそ、お客様に受付の兄ちゃんぶっけてくるとは結構な歓迎なんじゃないの?オーナーさん。」
オーナーは自分の腕を掴んでいるその男を見た。
「…貴様が…利華だな。」
特徴のある外見から判断するのは容易いことだった。
「…あの子が居なきゃ客でもなんでもない、さっさと失せろ。」
「な…に!?」
オーナーは利華の手を振払うと受付の胸ぐらを掴んだ。
「J・Jという男が…旦那様の指示であの子を連れていくと…確かにそう言ったんだな?」
「は…はい…これをオーナーにと…!」
受付は震える手で手紙をオーナーに渡し、周りでその時の様子の一部始終を見ていたウェイター達も、大きく頷いた。 もぎ取るように手紙を奪い、オーナーは素早くそれに目を通す。
「……チッ…!」
オーナーは舌打ちする不機嫌そうに自室に入っていった。
「………どういうことなんだ?」
利華は側にいた顔なじみのウェイターに話し掛けるが、初めてみたオーナーの暴挙の前にただ震えているだけだった。利華は周りを見回すがどいつもこいつも皆同じ様子、ふと人影の奥に一至の姿を捕らえた。放心状態のまま壁にもたれて座り込んでいる一至に近付くと、利華は聞いた。
「一至!何なんだ?何があったんだ!?麗蒔は…!?」
いまだ放心状態の一至の肩を揺さぶると、我に還ったように一至の瞳に光が戻る。
「利華……麗蒔が…連れていかれた…。」
「連れて…って、誰に!?」
「J・Jと名乗る男が…オーナーの知り合いで……旦那様の要望がどうとか……麗蒔が…強引に連れて…それで…!」
いつもは理知的で冷静を装う一至だが、いまいちはっきりしない文法に、今彼がどの位動揺しているか測る事が出来る。それでも一至の伝えたい内容は何とか理解する事は出来た。
J・Jと名乗る男に麗蒔が連れ去られた…!
男がオーナーの知り合いという事は…旦那様という事は…『麗蒔の命を狙っていた組織に連れ去られた』という事だ!!
「な…んてことだ…!!」
利華の全身から気持ちの悪い汗が吹き出して来た。処分した筈の存在を生かしていた事が組織に見つかってしまった、そう判断しても間違いないだろう。それを知る唯一の男は、先程渡された手紙を見るなり自室にこもってしまっていた。
たぶん奴にとって都合の良くない事が書いてあったんだろう、奴は自分だけ逃げるつもりなのかもしれない。
(そんな事させるか!)
利華はオーナーが消えた店の奥に走り出していた。こんな混乱状態の店内で、関係者以外立ち入り禁止のそこに入っていく利華を止める店員は誰もいなかった。他の戸よりも幾分立派な造りの戸を、利華はためらいもなく勢い良く開けた。
「逃げるのかッ!」
部屋の中の男は驚いて利華を見た。
「…恐いもの知らずなのだな貴様は…。」
オーナーは怒りよりも呆れの色濃い口調で言った。この部屋に無断で押し入ろうなんて、この店の者なら決して出来よう筈も無い事。特に、ヤバい事に極力かかわりたがらないここの連中には。
「麗蒔を見殺しにして逃げるのかッ?もとはあんたが招いた事態なんだろうが!?」
「!?」
オーナーの表情が変わった、かと思うと利華は自分の体が宙に浮く感触を覚えた。
「ぐはッ…!」
利華は一瞬にして組み敷かれていた。
「…あの子に何か聞いたな……貴様、何を知っている?」
カチリ、と音がして何かを後頭部に当てられる。
「………!」
利華は初めて本当の恐怖というのを味わった。 これが…麗蒔の恐れている男なのだ。
「降りろ。」
麗蒔の連れてこられた先は、あまりにも立派な豪邸…というより大きなビルの様だった。いまだ事態の飲み込めていない麗蒔は呆然と辺りを見回し狼狽えるだけだ。
「そう脅えるな…何も殺そうってんじゃない。これからお前は旦那様に会う、もし気に入られればお前はあんな薄汚い地下から抜け出してここに住める事になるんだぜ?良い話だろう。」
「……。」
麗蒔は漸く自分の状況を把握してきた。自分は買われたのだ、いや、飼われたのだ。さっきからずっと麗蒔の肌に纏わりついて離れない嫌な空気を漂わせる所に。 麗蒔は知っていた、以前に同胞が突然一人の男に買い上げられ店を出ていったことを。そういう事もあるのだという事を。だが自分は特別、そんな事オーナーが認めるわけはない。少なくとも、ここはあのオーナーの所にいるよりも何か危険な香りが渦巻いている…。
「こんなことオーナーが許しはしませんよ!?」
男は鼻で笑って言った。
「オーナー…ね、D・Kの事か…。ここは奴にとってのお偉いサンの所なのさ、奴が口出しできるものではない。たとえ一番お気に入りの玩具を取り上げられたとしてもだ。」
「やだ…帰る…!」
「帰る?何所にだ、あの淫売小屋にか?」
男は笑いながら、嫌がる麗蒔を軽々と抱えあげると建物に入っていった。そのまま個室に連れていかれ、風呂に入れられ髪をとかされた。見た事ない位綺麗な服で着飾られ、化粧を施される。最初抵抗した麗蒔も、命を取られる程の危険が無い事を理解し、おとなしく従った。
「ほぉ…たいした綺麗になるもんだぜ…!」
仕上がりの出来に、麗蒔を連れ去った男が感嘆の声をあげた。メイクをしていた女性達も誇らしげに頷く。
「これなら旦那様も坊ちゃんも満足間違い無しですね!」
鏡を見せられた麗蒔の目に、見なれない格好をした綺麗な人形が映った。麗蒔はその格好のまま男に連れられ建物の奥へ通される。物々しい造りの扉や絨毯の先にある部屋の前で男は立ち止まる。
「旦那様、お連れ致しました。」
「…入れ。」
中から低い声が答えた。開かれた扉の向こうにはロマンスグレーの髪を携えた上品そうな紳士がこちらを見ていた。
「…ほう、これか……なかな良い顔立ちをしているな…。」
「旦那様の好みに合うと思い、この者に致しました。」
「うむ、よくわかっているなお前は…この顔つきは私の好むところだぞ。私が気に入るものを息子が気に入らぬわけがない、よし祥之をここに呼びなさい。」
「はい、旦那様。」
言われた男が部屋を出ていった。
「そこまで知っているとはな…。」
「………。」
利華は組み敷かれたまま、質問に答えさせられていた。
「あんたは…麗蒔が組織に見つかったから……自分の立場も危うい事を察知して逃げるつもりなんだろう…ッ!」
「逃げるだと?」
「逃げる準備してたんだろうッ!今頃麗蒔は…ッ……!!」
その事を考えると、利華は辛くて言葉が続かなくなった。オーナーは苦渋な表情の利華をあざ笑うと呆れたように言った。
「私を見下してくれては困るな、私は逃げも隠れもせん。それにあの子は、殺されない。」
押さえ付けられていた利華の手が放され利華の背が軽くなる。体が自由になったとはいえ、長い事締め上げられていた手は、痺れて動かす事は出来ない。
「まだあの時の子供だという事は気付かれていないんだよ…、J・Jは例の件にはかかわっていなかったからな。旦那様もまさかこの私が旦那様の命に逆らって、あの子を生かしておいているとは思わないだろう。それに…あの女とその子供の事なんて、顔すら良く覚えてもいないだろうしな。」
動けない利華を横目にオーナーは余裕で煙草に火をつけた。
「自分の…愛人や子供の顔、わかんないってのか?」
「星の数程いる人間の内の一つなど覚えているわけなかろう?まぁ掛けたまえ、少し話をしようじゃないか。」
漸く起き上がった利華を、オーナーは椅子に座るよう促した。訝しく思いながらも、逆らえない事を先程痛感させられた利華は警戒しながらそれに腰をおろす。
「じゃあ…麗蒔は生きてるんだな?」
「今はな…だが例の件を知る奴に会えばあの子は消される。」
麗蒔の話では、この男の他に数人の男がいたはずだ、もしその組織とやらの中でそいつらに見つかれば…。
「…まぁ…奴等に会う可能性は低いがな…。」
自分もただでは済まされないかもしれないという時にこの男のこの余裕は、その可能性が極端に低い事を物語っているのだろう。ということは麗蒔はほぼ確実に生きていると判断していいのだろう、無事なのだ。
「でも、今は、ってことなんだろ?…急がないと…!」
利華の真意を感知し、オーナーは眉間にしわを寄せた。くわえていた煙草を灰皿に押し付ける。
「…君は馬鹿な事を考えていないか?何をしたいのだ?」
「あんたは…何もしない気なのか!?麗蒔が…麗蒔がさらわれたんだぞ!?あんた何にも感じないのか!?所詮あんたは玩具を一つ無くしたぐらいにしか感じてないんだろう!」
やけに落ち着きはらった男の態度が利華を苛立たせる。まだ無事だとしても、この先どうなるかわからないというのに、こうも目の前で落ち着いていられると腹立たしい。
「…あの子の事は愛しているぞ、あの子は私にとって特別だ。」
利華はその言葉を耳にすると、感情を露に立ち上がった。
「嘘つくなッ!麗蒔は俺に会うまで愛される事も愛する事も知らなかった、お前が注いでいたのは愛情でも何でもないっ!」
利華はこの男に先ほどまで自分の命を奪われる程の恐怖を与えられていた事も忘れ、男の胸ぐらにつかみかかっていた。
「愛情にはいろいろな形があるものだ。」
「屁理屈を…ッ!本当に大切だったらこんな時に麗蒔を放っておけるものか!あんたなら、助け出す事位出来るんだろう!?なんでそんなに人事の様に構えてやがる…!!」
オーナーはかわす素振りもなく利華に掴ませていたが、一通り利華の話を聞くと、易々と利華を振り解き、襟を直し言った。
「せっかく気付かれていないというのに…私が表立って動いても逆に怪しまれるだけだろうが、頭が悪いな君は。直情的に動けばいいというものではない。」
「う…。」
あくまで落ち着いたオーナーの正論に利華は言葉を詰まらせた。確かに、この男が下手に動いても怪しいだけかもしれない。 オーナーは先程受付に渡された手紙をテーブルの上に出す。
「旦那様の御子息の玩具が必要だから、一つ貰っていくと書いてあった。うまく気に入られれば殺される事は無い。大丈夫だ、あの子なら上手くやるだろう。…だが御子息は男より女を好むお方、すぐに飽きるだろう。その頃を見計らって屋敷に拾いに行けば良い事だ…所詮私のもとに帰ってくるのさあの子は、何も急ぐ必要などない。」
組織の内状を良く知る男だからこそ見せる余裕なのだろう。だがそんなの知らない利華には落ち着いてなんかいられない。
「だからって麗蒔が玩具にされんの黙ってろってのか…!」
その、御子息とやらの玩具にされて、飽きられて捨てられるまで待てというのか。オーナーはそんな利華を鼻で笑った。
「…今となんら状況が変わるわけではあるまい?相手が一人になるのだから、あの子にとっては楽で良い事かもしれんぞ。もっとも、ものたりなくて喘ぐ日々だろうがな…かわいそうに。」
そう言って目の前の男は愉快そうに煙草をふかした。 利華は忘れていた。この男が麗蒔を玩具に作り上げた張本人だったという事を。そんな奴相手に自分の気持ちをぶつけている事自体が馬鹿な話だった。仮にこの男が麗蒔を連れ戻しにいったところで、麗蒔にとっては助けになんかなっていない。興奮して立ち上がっていた利華は、ようやく少し頭を冷静に働かせ、椅子に座り直した。
「…さて、たくさんお喋りしてそろそろ満足したかな?私も楽しかったよ。だが君は少し多く知り過ぎてしまったな…。」
突然、利華は額に冷たい鉄の感触を突き付けられた。
「…!!」
利華は身体を動かそうとしたが、突き付けられたほんの小さな銃口に立ち上がる自由を奪われていた。
「さよならだよ、利華クン。」
「なぁんの用だよクソおやじッ!」
呼ばれて部屋に入って来たのは、まだ少年の面影を残した小柄の青年だった。不機嫌そうにこの部屋の主に食ってかかる青年を、主人は柔らかい口調でたしなめる。
「まだこの間の女と別れさせたことを根に持っているのか祥之?女遊びはいかんぞ、ましてあんな一般人など…結婚相手は時期が来たらちゃんと良い物を父さんが用意してやるといっているだろう?」
祥之と呼ばれた男は、それを聞いて更に顔を赤くして憤慨した。
「俺が誰と付き合おうと放っといてくれ!大体てめーは散々女遊びしておいて、俺にはさせねえってなどういうこったい!」
飛びかかりそうな勢いの祥之を側にいた男達が取り押さえた。
「落ち着いて下さい坊ちゃん!」
坊ちゃん、と呼ばれ祥之の中で何かがプチッと切れた。
「いつまでも坊ちゃんって呼ぶなッ!一体俺を幾つだと思ってんだ!大体俺はこんなトコ、絶対に継がないんだからなッ!!俺はフツーに生きたいんだッ、フツーに!」
腕をぶんぶん振り回して男達を振払うと、祥之は凄い勢いで捲し立てた。だがここの主人は、また駄々をこねているな、程度にしか捉えていないようである。
「まぁ落ち着かんか祥之、今日はお前にプレゼントがあって呼んだのだからな、これで機嫌を直しなさい。」
「プレゼントだぁ?」
主人は麗蒔の肩に手をまわすと、前に歩くよう促した。暴れていた祥之は、歩みでた綺麗な人を見てその動きをやめた。
「……何……コレをくれるっての?……マジで?」
主人は頷くとにっこり笑い親バカの顔になった。 祥之は自分を押さえていた男達を振り解き、麗蒔に近付いてきてまじまじと麗蒔の顔を見つめた。顔を背けようとした麗蒔の顎に指を添え自分の方に向けさせる。
「…やだ…!」
思わず発した麗蒔の声を聞き、祥之はハッと表情を変える。
「おッ…男ッ!?」
興味を示した対象が男だった事を知り祥之は大きく後ずさる。
「そうだよ祥之、綺麗だろう?」
「綺麗…って、男じゃないか!俺そーゆー趣味ねえの!!」
怒って出て行こうとした先のドアを、男達が塞ぐ。
「どけって!命令だぞ!!」
「まぁ祥之落ち着かんか、座って私の話を聞きなさい。」
祥之はその小柄な体で立ちはだかる男達を蹴ったり殴ったりしていたが、びくともしない男の壁に降参したのか、部屋のど真ん中にドッカリとあぐらをかき、ふてくされたように座った。
「なんだよ!?」
「以前話した事があったろう?私は昔たいそう女遊びが過ぎてね、それがもとで後にとても面倒なことになったのだよ。祥之、私はお前にそんな思いをさせたくないのだ、わかるね?しかしお前もいい年頃の男子、玩具の一つも必要だろうと思ってな。」
面白く無さそうな顔で聞いていた祥之は、呟く様に言った。
「……よーするに男なら孕まないから男で遊べ…って事か?」
「頭の良い子だ、そういうことだよ。これならいくら遊んでも構わんのだぞ祥之?」
「いらねぇ!女がいいの、女が!」
あくまでも拒む祥之に主人が眉を潜めて言った。
「そんなにいうのなら、この間の女をお前の玩具として与えてあげてもよいぞ…永久避妊処置を施したうえでならね。」
「そっ…そんなことするなよッ!させないぞクソおやじっ!!」
祥之は慌てた、自分の父親が口にした事を本当に行動を起こすかどうかは息子である彼には良くわかっていたのだ。
「思っている程悪いものではないぞ、男の味というのも…。」
主人の手が麗蒔の腰を抱き寄せいやらしく体を撫で回すと、麗蒔は嫌がって身を捩った。
「…あーわかった、わかったよ。そいつ貰うよ、味でもなんでもみるからさっさと俺の部屋運んどけよ!」
祥之は仕方なくプレゼントを受け取る意思表示すると、むくれて部屋を出ていった。
「…坊ちゃん、お気に召さなかったんでしょうか…?」
「なに、男を与えた事がなかったから戸惑っているだけだ。これはあのD・K 御墨付きの極上品だということだしな。きっとすぐに気に入るだろう…よし、連れていけ。」
麗蒔は言われるまま祥之の部屋へと連れていかれた。抵抗はせずに、おとなしく従った。周りの様子を伺いながら。そうすることが、自分の身を守る唯一の手段であることが麗蒔にはわかっていた。暫くして、麗蒔はある扉の前に辿り着いた。
「失礼のないようにしろ、精々気に入られて可愛がって貰いな。」
麗蒔を先導していた男はそう言うと麗蒔の背を押した。麗蒔は大きく溜息を吐くと観念してその扉を開けた。
「失礼します…。」
部屋の中は見た事も無い程の広さと清潔さ、明るさと豪華さを携えていた。そしてその奥の大きすぎる程の真っ白なベッドに先ほどの人影を見つける。
「こっちこいよ。」
その影が麗蒔に手招するのを確認し、麗蒔を誘導してきた男が扉を閉めると、この部屋にはこの屋敷の主人の愛息子、祥之と、麗蒔の二人っきりになった。祥之の前まで歩みでた麗蒔の手を祥之はいきなり掴み、麗蒔の細い身体を軽々と抱き上げる。
「!」
突然の浮遊感に麗蒔が抵抗する間もなく、祥之は麗蒔をベッドに組み敷いていた。
「随分軽いな……あんた、名前は?」
「……麗蒔…。」
間近に迫った祥之の顔を見て、自分よりも少し幼いであろうと麗蒔は思った。幼い時から大人の相手ばかりさせられてきたが、今度は自分より幼い者にまで玩具として扱われるんだろうか…麗蒔は自分を笑いたくなった。
おそらくここでこの男を唯一の主人として生きていく事になるんだろう、いいじゃないか、今までより楽になるだろう?あの男から逃れられただろう?この男のお気に入りにさえなれば、自分は生きていく糧を得られるのだ…そうおもえば慣れきったこの身体をどうされようと、何の事はないだろう?今までより良い部屋を与えられ、今までより良い服に身を包み、ちゃんとした食事を与えられ……でも、何かが無い…何かが…。
祥之の顔が、ゆっくりと麗蒔に近付いて来た。
(…………利華…!)
「…今、何と言った?」
銃口を突き付けられたまま、利華はやけに冷静になっていた。自分はこれから殺されるだろうという時に、人間はこうも落ちつける精神を持ち合わせているもんなのだなと不思議に思う。
「…あんたは俺を撃たない、と言った。」
対面する男は利華の言葉を笑った。
「私は人ひとり消すのを何とも思わない男だぞ?何を根拠にそんな自信が生まれるのか、是非聞きたいものだな。」
利華にとってこれはある種の賭けだった、少しでもこの男の気に触れば簡単に引金を引くだろう。だが、どちらにしろ引かれる引金なら、賭けてみる価値はある。冷たい銃口の感触を額に受けながら利華は続けた。
「…そうだ、あんたはプロだ、だから俺を撃たない。少なくともここでは…それがプロってもんなんだろう?」
オーナーは口元を少し歪ませると、銃を握り直した。カチャ…と僅かに聞こえた鉄の音に、利華はいよいよ息を飲む。
「……前言撤回しよう、君は馬鹿ではないな。」
不意に向けられていた銃口が反らされ、利華の額は軽くなった。回避された死の恐怖に、大きく息を吐いた利華の全身から汗が吹き出してきた。
「たしかに…ここはいわば私の自宅の様なもの、ここを汚すのは趣味ではない。しかも、君はここに来るまでに多数の人間に目撃され過ぎている。こんな条件下で仕事をする程、私は冒険者ではないのでね…。」
プロゆえに犯さない過ち、条件の悪い場所での仕事は極力しないのだ、特にこの男の様に冷静で保守的な男の場合は。
「銃口を向けられてそこまで考えられる奴はそういないものだよ?君はなかなか度胸のある人間だ利華クン、気に入ったよ。」
「…そいつはどうも。」
オーナーは利華から離れると、正面のソファーに腰掛けた。
「そうやって、あんたは気まぐれで同じ様に麗蒔も生かしておいたのか?」
「…それはどうかな?言っただろう、あの子は特別なんだと。」
オーナーは意味深な含み笑いを浮かべ、右手で先ほどの凶器をくるくるとまわした。なんとかその場を凌いだとはいえ、この男はいつでも利華を殺す事の出来る男だ、利菓は気を抜く暇も無く対策を練った。この場から逃れることも勿論だが、なんとかこの男の力を利用できないものか、と。自分が生き延びるために、麗蒔を取り戻すために。
「…その特別が手元になくて、あんただって本当は面白くないんだろ?」
「……たしかに面白くは…ないがな。私が留守でなければ一至でも持っていかせたのだが、…旦那様の御要望とあらば逆らうわけにもいかんのだよ。」
男は表情を変えずに言った。もし自分が居たなら、この男は一至を差し出すつもりだったようだ。一至とてこの店のいい稼ぎ頭、それを差し出すということは、それほど麗蒔に執着していた事と、その旦那様とやらによほど忠実であるという事の両面が伺いとれる。
「あんたが、直接動く訳にはいかないっていうんだろ…」
「…何が言いたい?」
「俺が、麗蒔を連れ出してもあんたには問題はないよな。」
男は暫し無言になると呆れた様に言った。
「やはり君は馬鹿な男のようだな…。そんな事、たかが落ちぶれたアーティストごときに出来るものではないぞ。」
当然だ、利華はただの普通の人間なのだ、ましてこの男のように特殊な訓練や教育を受けた者でもない。それでも利華は言った。
「俺は…絶対助け出す!」
勿論確信はなかったが、根拠のない自信はあった。ただ、助けたいと思う意志は目の前の男に勝っている。得体のしれない組織がなんなのか知らないが、そうしなければこの状況を回避する事も、麗蒔を救ってやる事もできないのだ。
利華は、ふとある事を思い付き、それを口に出した。
「…どうだ、俺と賭けをしないか?万が一麗蒔を助けだせたら、麗蒔を俺に引き取らせてもらう。もし助け出せなかったら、あんたの思惑通り、麗蒔は直にあんたのもとにちゃんと戻ってくるって手筈だ。」
利華は一世一代の大きな賭けに出た。しかしそれもこの男が上手い事のってくれなければ意味がない。 オーナーは眉を潜めて利華に言った。
「…賭けというのは利益に付加がつかなければ意味がないものだぞ?君が助けだせなかった時に、その条件では私には何のメリットも発生しないな。」
「あるさ…これだ。」
利華は今日、偶然持ち合わせてた通帳をオーナーに差し出した。今日は例のヤブが証拠隠滅金を送り込んでくる日だったのだ。
「こいつには毎月これだけ振り込まれてくるんだぜ…あんたにとっちゃはした金かもしれないが、そんな悪くないだろう?それに…」
「…まだ何か付けるものがあるとでもいうのかい?」
オーナーは利華の差し出した通帳をめくりながら利華の次の言葉を面白半分に期待していた。
「俺が失敗したなら、すなわち、あんたは手を汚さずとも他人が俺を消してくれるってことだろ?」
利華は自分で自分の言っている意味は良く理解していた。それだけの覚悟はあった。 『一度は捨てた命、俺はお前に賭けるよ。』 自分で言ったこの言葉、本当に実行する時が、今。
オーナーは少し俯き、肩を震わせると声高らかに笑い出した。
「君には負けるよ利華クン、君の愚かさには。…いいだろう、君の茶番につきあってあげようじゃないか。」
オーナーは利華の話に興味を示してきた。ソファーから身を乗り出すと確認するようにもう一度利菓の条件を復唱した。
「もし、君が…本当にあの子を救い出すことが出来たなら、君にあの子をあげよう。ただし、失敗は君にとって死を意味し、残された物もあの子も私の物だ、いいね?」
「ああそうだ…そういう事だ。」
生き延びて助けだせれば利華の思うがままに事は運び、失敗すればこの男の思うがまま、条件自体は50&50だ。しかし確率は明らかに利華の方が分が悪い、それを承知で望んだ賭けではあるが、平等ではなかった。
「………だが結果の見えている賭けでは私として面白くはない。…利華クン、君はこいつを触った事があるかい?」
「え?」
オーナーは右手に持ったままだった玩具をテーブルに置くと、利華の方に滑らせた。咄嗟に出した利菓の手の上に、見た目よりも重いそれが飛び込んで来た。人を簡単に死の淵に追いやる事の出来るその凶器。
「それは私からの選別だ、他にも必要な物があれば言うと良い。まあ精々がんばりたまえ。」
男は愉快そうに微笑して新しい煙草に火をつけた。
「……やめたっ!」
祥之は急に麗蒔の上から退くとベッドの上で一回、二回と転がって麗蒔から離れた。
「……どうして…しないんですか?」
「…俺Sじゃねーもん、…泣いてる奴無理やりヤれねーよ。」
祥之にそう言われ顔に手を当てた麗蒔は、自分が頬を随分濡らしていた事に漸く気が付いた。この場に及んで、自分にはまだ涙なんて流せたんだなと思ってしまう。
「それに俺、やっぱり男抱く気にャなんねーや。」
祥之は脚で反動を付けてベッドから跳ね起きると、ハンカチを出してきて麗蒔の前に差し出した。麗蒔は軽く会釈してそれを受け取ると顔を拭った。
「あんただって男にヤられんのなんて嫌なんだろ?ヤられるってどういう事か知ってンのか?かなり痛えっていうぜ!」
祥之は脱ぎかけていた服を着直すと、麗蒔の横に腰掛けた。麗蒔の体は警戒心を露にするが、祥之は構わず麗蒔に近寄った。
「なぁ…あんたなんでここに来たの?どっかから連れて来られたのか?家族は?身寄りは?」
「………。」
「……んー…黙んまりじゃわかんねーんだよなぁ…とりあえず楽にしろって、さっきは悪かった、俺、何もしねえって!な?」
祥之は麗蒔が脅えているのに気付き、麗蒔の肩にシルクのガウンを優しく掛けると少し麗蒔から離れた。
「そんな、怖がんなって…、さっきは本当ごめん。」
「……いえ、もう大丈夫ですから。」
麗蒔の考えていた主人像とは少し違う様子のこの御主人に、麗蒔も落ち着きを取り戻し始める。この人はそんなに悪い人では無いのかも…麗蒔の中に僅かな安堵感が芽生えてきた。祥之は緊張の少し弛んだ麗蒔のそばににじり寄るとちょこんと隣に座った。
「なぁ…麗蒔、…あのさ、俺の話相手になってくれないか?」
「え…?」
「俺さ…こんな環境だから同年代の友達って作らせてもらえねえんだ…。俺、お前に手は出さないから絶対!…ダメ…かな?やっぱり…俺一度お前の事襲おうとしてるし、説得力ねぇよな…嫌われてるよなぁ…あはは…。」
「……。」
この組織がどの位堅苦しく居心地が悪いか、麗蒔にも肌で感じていた。その中で跡継ぎという名目と看板を背負わされ、息苦しさに祥之は嫌気がさしている事は、先程の騒動で初対面の麗蒔にもわかる程だ。
これだけ大勢の人に囲まれ、何不自由無く物を与えられているというのに、ただ、そこにいるだけで自分の意志は尊重されない。祥之はいつも孤独で、近しい存在に脅え、自由を求めている。その姿はまるであの男に連れ去られた後の自分のよう。
「…嫌いじゃ…ないですよ…。」
半ば諦めかけていた様子の祥之は、麗蒔の言葉を聞いて目を輝かせた。
「本当?俺の事嫌って無い?」
麗蒔は頷いた。 この人は何かを求めてる、何かを期待している、こんな俺に。ただ話をしてくれるだけでも嬉しかった、自分に会う為だけに来て、自分の心に触れようとしてくれた人…利華。自分には利華という存在が現れたように、彼にとっての利華は、俺なのかもしれない…。
麗蒔の中で初めての感情が芽生えてきていた。自分以外の人間にこれほど哀れみを感じた事など今までなかった。
彼は自分に似ている…?
「じゃあ…ここに居てくれよ麗蒔、家族みたいに、兄弟みたいにさ!俺、そういう相手欲しかったんだ!」
彼が自分と違うのは、自分よりももっと素直だという事。自分の気持ち、自分の求めている物に素直になれる事。自分もこんなふうに振る舞えていたなら、もっと早くに『利華』を見つけていたのかもしれないなと麗蒔は思った。欲しいものは欲しい、嫌なものは嫌、そうはっきり意思表示できるから、自分をもっと周りにわかってもらおうと努力しているから、だから…祥之が今、どれ程麗蒔の存在を求めているかがわかってしまう。放っておけない複雑な感情が生まれてしまう。
「………あの…祥之様…」
「うわっ、キモッ!祥之様!?よしてくれって、そんな呼び方、屋敷の堅物だけで充分だ、祥之でいいよ、祥之で!」
祥之はむず痒さに顔をしかめ全身をボリボリ掻いた。祥之のリアクションが可笑しくて、思わず麗蒔は笑った。
「…やっと笑ってくれたんだな、あんたやっぱその方が綺麗だよ、抱く抱かないは別としてさ。」
ようやく頬を乾かした麗蒔に祥之も少年っぽい笑顔を向けた。
朝、目が覚めると、麗蒔は自分の価値には不似合いな程の豪華な部屋にいる事を実感する。始めてここに来てからもう何日位たっているんだろう…。
半ば流されるようにここに留まってから、何度か夜を過ごした。約束通り祥之は麗蒔に手を出そうとはしない。何も拘束もしてこないし、色々プレゼントをくれるし、何でも麗蒔の自由にさせてくれた。ただ、この部屋から出る事を除いては。
麗蒔の存在は、屋敷の御子息の愛玩具。たとえ祥之が麗蒔をそう扱っていなくとも、周りにはそういうことになっていた。そうして置かなくては、この屋敷内における麗蒔の存在を否定されてしまうからである。
「ただいま麗蒔!」
「おかえり祥之。」
ここは安全だし、明るいし、体も楽だし、祥之もやさしい。だけど、有り余る時間以外は何もない…。 祥之が外出から帰ってくるのを麗蒔は毎日ただ待ち続ける。それが、主人の帰りを待つ犬のようだな、と思い始めたのは二、三日程前からだった。
「麗蒔、はいコレ!」
祥之は、麗蒔に真新しいギターを差し出した。
「…俺に?…ありがとう…!」
祥之は麗蒔が部屋で待っている間暇だろうと思い、前に麗蒔がギターが好きと言っていたのを思い出して買ってきたのだ。
麗蒔は久しぶりのギターの感触を懐かしく思い、愛おしそうに抱えた。だが弦を軽く指ではじいた時、その違和感に少し眉を潜めた。慣れ親しんだ物と違い自分の手に上手く馴染まない。
「…気に入らなかった?」
「ううん、そんなことないよ。」
せっかくの祥之の気持ちを傷つけたくなかった。それに同じものなど何所にもある訳がないのだ、と麗蒔は気持ちを妥協させる。慣れ親しんだ母親の形見のギターではないけれども、ギターには変わりが無いのだ、久しぶりに音が出せるのだから。
「何か弾いて聴かせてよ。」
「うん…。」
麗蒔はまっ先に思い出した曲を弾いた。
「…すげーいい曲、気に入ったな俺!うん、俺これ好き!」
祥之はその曲にあわせて足でリズムを取り出した。
「…これは、俺の知り合いが作った曲なんだ。」
これは、利華の曲。麗蒔の大好きな、利華の曲。
(……利華……利華!)
「……麗…蒔…?」
手を止めた麗蒔が泣いているのに気付き、祥之が麗蒔の肩をそっと抱いた。
「…………帰り…たい…?」
麗蒔の肩が僅かに震えた。
「……あんな場所に…帰りたいの…?」
「!?」
驚いて麗蒔は祥之の顔を見た。自分が何所にいたとか、そんな事話したことなかったのに、今、祥之はたしかに『あんな場所』と言ったのだ。
「親父に聞いた…麗蒔をどこから連れてきたのか。だから俺…あんな所に麗蒔を戻したくなくて、俺といる方が絶対麗蒔にとって幸せなんだって勝手に思ってた。」
自分から口を開かない麗蒔の過去は、皮肉にも祥之は一番気に食わない男から知る事になった。麗蒔が男娼館のイチ押し商品だったこと。もし自分が麗蒔をいらないと一言言えば、彼はまた男娼館に戻されるんだろう。そう考えると麗蒔が哀れに思えたのだ。
「…だけどそうじゃなかったんだな…麗蒔。それは俺のエゴが満たされてただけで、麗蒔にとって全然良い事なんかじゃなかったんだ。」
祥之はちょっと照れくさそうに、寂しそうに言った。 自分は麗蒔の存在に安らぎを求めても、麗蒔の瞳の奥はいつも不安そうに何かを探していた。気付いていたけど、自分の安らぎを失いたく無くて、見て見ぬ振りをしていた。だけどそんな麗蒔を見てるのも、もう限界、いたたまれない。
麗蒔は回された祥之の手にそっと手を添え両手で握りしめた。
「……わからない…。戻りたいのかわからないんだよ祥之…。ここは…祥之は、本当に俺を大事にしてくれる…あそこには戻りたく無い…でも……。」
麗蒔は祥之の気持ちも良くわかっていた。自分を必要に思ってくれている…麗蒔にとっての利華のように。自分が利華を失う事が恐いように、彼も今、失う事に脅えているだろう。
だけど、ここで譲ってしまったら、俺の人生って本当に何なの?俺がしたい事って何なの?俺が求めているのは…。
「俺、あそこに大事なものを置いてきてしまったから…。」
大切な、大切な、忘れ物。急に俺がいなくなってどうしているのだろう…。
会いたいよ…利華。
「………そっかぁ…。」
祥之は、ふぅーっと長い溜息を付くと一人で何かに頷いた。
「……麗蒔、お別れだな。」
祥之は優しい目で言った。
「取りに行けよ…忘れ物。もう彼所に戻らなくても済むよう、俺が手配してやる。忘れ物を手に入れたら、お前はどこに行ってもいいんだぜ。俺の最後のプレゼント…お前にやるよ、『自由』ってやつを。」
ただの戯れ言の様にも聞こえるそれ、しかし祥之は実現するだけの権力を兼ね備えていたのだ。利華や、一至にはどうしても出来なかった最後の壁を壊す事を。
「祥之…!」
麗蒔は祥之の首に縋り付いた。そして声をあげて泣いていた。悲しみや苦痛からではない、不思議な涙だった。自分を長年苦しめていたものは、こうも簡単に消え去っていくものなのかと。
「なぁ麗蒔…行くのは俺の最後の愚痴話、聞いてからにしてくれないか?」
祥之は麗蒔の髪を撫でながら、最後のお願いをする。
「…うん…もちろん、何でも聞くよ…祥之。」
優しい祥之、いつも話し相手になってあげるだけで嬉しそうな祥之。その話を聞いてあげるのもこれで最後なんだ。 麗蒔は祥之にまわしていた腕を解くと祥之の隣に座り、いつもの様に聞きの体制に入る。祥之もそれを見ると、少しホッとして話し始めた。
「麗蒔も聞いたと思うけど、俺の親父さ…若い時すっげー女癖悪くてさ、あっちこっちに女作って遊び歩いてたんだ。この家を継いでからはちゃんとした嫁さんもらって…それが俺のおふくろなんだけど、でも俺が生まれて暫くしてあちこちに親父の子供がいるってことがわかって…それもすんゲェ数!ほら、俺ン家ってこんなだろ?跡継ぎ問題とかうるさいらしくて、俺を跡取りって決めてた親父は、その存在がおふくろとか周りの者に発覚する事を恐れたんだ。」
麗蒔にはなぜそれが大変な事なのかはよくわからないが、相槌をうつように頷きながら聞いていた。跡継ぎとか、お家騒動とかは、麗蒔には知りようも無い、はるか上の階層の世界だったから。
…でもなにかを思い出しそうな気もする。
「それでさ…おやじはどうしたと思う?」
祥之は急に麗蒔に問いかけて来た。
「……なんだろう?どうしたの?」
その状況がどういうことかすら理解出来て無い麗蒔には、わかるはずもない。そんな麗蒔に祥之は苦々しい表情を浮かべて言った。
「……始末させたんだ、いらない子供を一人残らず…!」
「!」
ぐらり、と麗蒔の中で何かが大きく揺れた。
『この子供は始末する。』
『お前はいらない子供だったってことさ…。』
どこかで聞いた声が麗蒔の頭に響いてきた。この声の男を麗蒔は良く知っている…麗蒔にとって忘れる事など出来ない存在の声。
イラナイコドモ…イラナイ……コドモ…
この時、麗蒔の顔が堅く強張っていることにまだ気付いていなかった祥之は、そのまま話し続けた。
「俺以外が跡継ぎ争いに出て来無いように、全てを無かった事にしたんだ…まだ生まれていなかった子供の命の芽まで全て刈取って、その母親に金を掴ませて黙らせたのさ!中には逃げ延びて暮らしてた親子もいたらしいんだけど…追い掛けてみつけだして、子供だけじゃなく母親の命まで奪ったって聞いた…。」
「…………。」
だがすでに祥之の話はもう、麗蒔の耳には入っていなかった。
「そんな奴が俺の親父なんだ…俺はアイツが恐い。一方的な溺愛を受けても、それに答えてやる気にはなれねぇ、こんな所継ぐ気なんかこれっぽっちもねぇ!。俺のせいで何人もの子供が殺された…今でも夢に見るんだ…俺の知らない誰かが俺の目の前で殺される夢を…何度も!」
祥之はよく悪夢にうなされて目を覚ましていた。そんな時は決まって麗蒔を起こし、暫く側にいてくれと甘えてきたのだ。 だが、そんな事今の麗蒔にはどうでも良い事だった。
「もし誰か一人でも俺の『兄貴』が生きていてくれたなら、俺は……」
祥之はそこまで言いかけて、始めて麗蒔の様子がおかしい事に気が付いた。
「麗蒔…どうした?」
麗蒔は目を見開いたまま身体を震わせ祥之を見ていた。いや、その目は見ていた、なんてものじゃ無かった。その目は祥之を憎悪の念で睨み付けていた。 麗蒔は全てを理解してしまった。自分がこんな目にあわされなくてはならなくなった事も、母親が死ななければならなかった事も、此所がその元凶、この男が…この男一人の為に…!!
「そう…だったのか……此処が………お前がっ……お前…だったのかっ……!!」
「……麗…蒔?」
「うわあああっッ!!」
「!!」
ただならぬ麗蒔の様子に驚いて祥之が後ずさったのと同時に、麗蒔は祥之の上に乗りかかった。麗蒔の手が祥之の首に絡まり、その華奢な細い手からは信じられない程の力で締め付けて来た。
「…お前のせいで俺は…っ…お前のせいで…かあさんが…かあさんはッ!!」
今までやり場の無い怒りを胸に閉じ込めたままだった麗蒔は、すべてを知った時、その怒りの対象を作り出してしまったのだ。
…憎イ…!!
「な…ッ…れい……苦…しっ…!」
祥之は墜ちそうな意識のなかで、必死に身体を動かしベッド脇のセンサーを作動させた。それからほんの数秒後、銃を構えた数人の男が部屋に飛び込んで来た。
「祥之様!」
男達は部屋の状況を瞬時に把握すると、すばやく二人に駆け寄り麗蒔の腹を蹴りあげた。麗蒔の体がゴムまりの様に宙に跳ね、側にいた一人の男が持っていた銃をそれに向け構えた。
(…や……やめろーーっ!!)
咽を強く締め付けられていた祥之の声は、音として発せられることはなく、男は何のためらいも無く引金を引いた。
麗蒔は、四度目の銃声をその耳に聞いた。
とある場所の地下、部屋には銃声の余韻が鳴り響いていた。銃を構える紅い髪の男は正面の的を睨み付けたまま、もう一度引金を引いた。発せられた轟音と共にその的の中心に穴が開く。
「……おみごと。たいした上達だよ利華クン。」
嫌味のような間隔のあいた拍手をしながら一人の男が利華に近付いてきた。
「中心を打ち抜いた…約束だ、麗蒔の居場所を教えろ!」
この銃を渡されたあと、オーナーはこの的の中心を打ち抜けるようになったら麗蒔の居場所の情報を教えてやると条件を出してきた。この男のいいなりになるのは癪だが、ただ闇雲に探し廻るよりは確実な情報が得られる事が確かだ。利華はその条件をのみ、始めて握るその凶器で的を射ぬくことに時間を費やしていた。
「たしかに…これだけ銃が扱えるようになれば簡単に人の命をも奪えよう。これなら萬に一つ位は君の勝つ可能性が…無くもないかもしれないぞ?」
「……さっさと教えろ!」
情報を聞き出すために必死に取り組んで来た事が、人を殺すための訓練である事は利華にもわかっていた。だがこの男からそれを口に出していわれると腹立たしい。
俺は人を殺すのだろうか…それとも殺されるのだろうか?殺されるくらいなら、いっそ相手を殺してでも…いや、この考えは…これで正しいのか?
考えれば考える程不安と恐怖でキリが無かった。だから利華はこれが罪の予行練習だ、などということは一切考えず、一心不乱に的を狙う行為のみに集中した。そのためか、利華の上達には驚くべきものがあったのだ。
「いいだろう教えよう。ここからが本当の賭けの始まりだ。」
男が書類の束を差し出すと、利華はそれを奪い取るように受け取り射撃場から駆け出した。
「愚かなものだな…若さとは。」
男は懐から自分の銃を抜くと、利華の狙っていた的に向けて数発放つ。そして煙草をくわえ火をつけると、射撃場を後にした。的には何所にも穴の数が増えた様子はなかったが、利華の打ち抜いた中心の穴が僅かに広がって見えた。
祥之の顔に水しぶきが跳んだ。祥之はその色を確認したくなかった…祥之のベッドを汚したそれは、ドサリと床に崩れ落ちる。部屋にいた屈強の男達はそれを取り囲み、一斉に銃を向けた。
「……っ…!…っ!!」
祥之は咳き込むだけで声を発せられない事がもどかしく思い、咄嗟に手に触れた電気スタンドを壁に叩き付けた。 ガラスの割れる音に、男達が手を止め祥之に注目する。自分達の主人が何かを主張しようとしている事に気付いたのだ。勿論、銃口はそらす事なく。
「……っめだ…っ……撃つな…ッ…その人は…!!」
祥之は咳き込む吐息を整えながら、何とかそう声にした。男達は顔を見合わせると主人の意志を受け、その銃をおろした。 祥之は急いで床に崩れ落ちた体に駆け寄る。
「麗蒔…麗蒔!!」
動かないその体を祈るように探ると、右大腿の辺りに銃痕があった。思ったより大量には出血しておらず、急所は外れている。ショックで意識が吹っ飛んだようだ。祥之は少しホッとし、思い出したように慌てて言った。
「医者連れてこい!何やってんだ早くしろ!!」
祥之に怒鳴られ、男の一人が急いで部屋を出ていった。
「…祥之様…これはいったい…?」
自分を襲ってきた暴漢を助けようとする主人に男達が首を傾げる。祥之は麗蒔を抱き起こしその体を強く抱き締め言った。
「麗蒔は……この人は俺の…兄貴だ!」
祥之はそっと麗蒔をベッドに運び、心配そうにその手を握りしめる。男達が妙にざわめいた事も、祥之は気付かなかった。
幸い、麗蒔の傷は大事には至らなかった。いまだ意識を失ったままだが、腕の良い医者の処置で、もう心配には及ばない。命にも別状はないようだ。
「麗蒔……。」
祥之は傍らで麗蒔の髪をずっと撫でながら意識のないその人に話し掛けていた。
「麗蒔…俺の兄貴なんだな…?そうなんだろ麗蒔…。」
自分とは全く似ていない顔、でも、血をわけた人。 自分とは全く違った道を通って来た人…麗蒔。 祥之は青白い麗蒔の顔にそっと手を触れた。
「…麗蒔がこんな目にあうのは…俺のせい…なの……?」
自分がこの世に存在してしまったばっかりに、麗蒔のような兄弟が何人消えたのだろうか…自分こそいらない子供なのではないか?
「…ごめんよ……俺…」
その時、部屋に誰かが入ってきた。驚いて祥之が振り返る。
「……何だM2…お前か…。」
祥之の見覚えの有る、体格の良い色黒の男が立っていた。古くからこの組織に所属しているその男、だが祥之はこの男が何だか嫌いである。たしか海外に行っていた筈だったが…。
「どうもお久しぶりです坊ちゃん、今日戻りました。」
「ノックぐらいしやがれ!」
祥之は男を睨み付けるとこっそり目頭を拭った。
「そいつはすいませんでした。帰る早々連絡を聞いて慌てて来たもので…。」
男は謝罪の言葉とは裏腹に、ずかずかと祥之のベッドにちかづいてくると横たわる麗蒔を見回した。
「………やっぱりな…D・Kの野郎め……。」
男はにたりと笑うと祥之を押し退け麗蒔を抱え上げた。
「何をする!?」
「『お兄様』をこんな所においておく訳にもいかんでしょう、祥之坊ちゃん?」
麗蒔がガラスの破片の散らばる血の染みのついたベッドに、そのまま横たえられていたことに気付き、祥之は二の句が告げず口を噤んだ。男は麗蒔をあながち怪我人を運ぶそれとは思えぬように乱暴に抱えると、そのまま部屋を出ていこうとした。
「ま…待て、こっちのベッドでいいだろ?どこに連れてく気なんだ?」
祥之は男の前に廻り込み、慌てて進路を塞ぐ。
「『お兄様』はそれ相応の場所にお連れしなくてはねぇ?」
そういって男はにやりと笑った。 祥之はそこでようやく気がついた。祥之に『兄』がいる事は、『許されない』事だというのを。
「…麗蒔を放せっ…これは命令だぞ!」
祥之は厳しい顔になり男に命令した。が、男はバカにするかの様に薄笑いを浮かべた。
「これは旦那様の命令なんですよ、はるか昔に下されたね…。」
男が言うと同時に部屋の戸が開き、数人の男が押し入って来た。問答無用に祥之の体を取り押さえ、その男を部屋の外に誘導する。 祥之の命令など、この組織ではそう権力のあるものでは無かった。普段は坊ちゃん、坊ちゃんとはやし立て、いざという時祥之が必死に命令を出しても、馬鹿にされたようにあしらわれるだけだった。祥之は悔しさに歯を食いしばる。その押さえ付ける男達の中には、祥之専属護衛も混じっていた。
「退け!…お前らぁっ…!どういうつもりなんだ!?」
「…申し訳ありません祥之様、旦那様の命令は絶対なのです!」
普段は祥之に忠実な男も、祥之より格上の命には逆らう事が出来ないのだ。祥之の目の前を、麗蒔を脇に抱えた男が優々と通り過ぎていく。まるで何も出来ない祥之を嘲るかのように、愉快そうに鼻歌を歌いながら部屋を出ていった。
「お前らッッ!放せーーっ!麗蒔ーーッ!!」
祥之の怒号が屋敷に暫く響き渡っていた。