『見つめて欲しい』

<6>



「…起きて、手塚」
「……起きてる…」
「あぁ、なんだ、動かないから寝てるのかと思っちゃったよ」
「………」
 散々突き回された後、手塚はようやく部屋に体を戻す事を許された。汗ばんだ体が冷え、寒い。
「おなかすいたでしょ手塚?今何か用意するからね」
「………」
 抵抗する気力も無く窓の傍に座り込んだままの手塚に優しく声をかけると、不二は手塚を残し部屋を出た。そういえば、もうすぐ『餌』の時間だった。
 不二が帰宅してから与えられる簡単な食事。それが手塚の唯一の生命の糧。
「…痛っ…」
 立ち上がろうと床に手を突き、手塚は走る痛みに腕をひいた。左腕の刺し傷が酷く痛む。さっき必死に掴まっていたせいだ。傷が開いたのか、血が滲んでいる。
 表情を歪めながら左腕の傷に手を当てた手塚は、そこでハッとする。
「……!?」

 さっき、左腕で掴まっていた。

 その事を思い出し、自分でも驚いて左腕を見つめその腕をゆっくりと動かしてみる。動かすのが恐かったその腕に、脳が命令を下す。動け、と。
 ピクン、と指が動く。そして、ゆっくりと手首が回転する。
「…動…く…!?」
 拳を握りしめ、鉄アレイでも持ち上げるような動作で肘を曲げた。痛みはあるものの支障なく動かせる。神経は繋がっている。腱はイカレてなどいなかったのだ。
 手塚の瞳に数日ぶりの生気がともる。
「腕が動く…動かせる…!」
 握れる拳、曲がる肘。また、テニスが出来る。
「ねぇ手塚…!」
 餌を手に部屋に戻って来た不二は、手塚の様子を見て脚を止めた。
「……なんだ、もう気付いちゃったのか」
 不二が小声で舌打ちする。
「俺の腕……動く!動くぞ!?何でもなかったんだ…!」
 腕の自由を取り戻した事の喜びを、手塚は隠しきれない。正確には取り戻したのではなく、最初から何でも無かっただけなのだが。失ったとばかり思っていたものが、ある日突然戻ってきた時の喜びは大きいものだ。
 これ程純粋に喜々とした手塚は、かつて誰も見た事はないだろう。不二もそんな無邪気な手塚を見たなら、いつも以上に目を細め微笑んで見守っていた事だろう。
 もし、ここに居るのがかつての不二であったならの話だが。
「手塚…今、またテニスが出来るって思ったよね?」
「え…?」
 だがここにいる不二は、手塚の思うような微笑みなど返してくれない。同じ微笑みでも、酷く恐ろしい威圧感を含んでいるその笑み。
「またテニスが出来るっ…て、そう思ったよね?手塚」
「あ………あぁ…?」
 当然、そう思うのが当たり前だ。手塚は素直に答える。その答えに不二の顔が、氷のように冷たく変化していくことなど、手塚には予想などできるはずも無く。
「その間…僕の事を完全に忘れたでしょ?」
「え…!?」
 ビクッと手塚が身を震わせた。 不二が何を言っているのかよくわからない。
 だが明らかに…この不二は、恐い。
「テニスで頭がいっぱいになって、僕の事忘れてたでしょうッ!!」
「あ…」
 ようやく不二のいっている意味を手塚は理解する。なんとも自分本意で勝手なその意味を。
「そうでしょ手塚ッ!」
 足早に歩み寄った不二は手塚の肩を掴むと、その頬を思いきり打った。
 パシッ!
「あぅッ!」
「忘れたでしょ手塚ッ!テニスの事で僕を…今、テニスの事しか頭になかったでしょ!?」
 パン、パンと手塚の頬を右に左に何度も打ちながら、不二はヒステリックに叫び続ける。テニスが出来ると歓喜した瞬間に、自分の事が頭から離れた手塚を不二は許せない。たとえ一分一秒でも自分の事を消し去ったその事が。
 嫉妬、だ。不二はテニスに激しく嫉妬しているのだ。
「あ…不二っ…やめ…!」
「君はいつもそう!いつも…そうだったんだから!!」
 不二が手を離すと、手塚は床に崩れた。顔を手で覆い隠すように手塚は床に蹲る。
「こんなに傍にいるのに、こんなに君を見てるのに…君には僕なんか眼中にないんだ!」
 不二は唇をぶるぶると震わせ、俯いた。どんなに自分の存在を絶対にしても、どんなにその体に自分を覚えさせても、『テニス』という存在に勝つ事が出来ない。手塚の中の『テニス』より、自分を大きくする事が…出来ない。
 手をあげてこなくなった不二を、手塚は指の隙間からそっと盗み見る。不二は俯いたまま体を僅かに震わせていた。
「君に見て欲しくて、必死に一番近いNO,2で在り続けた僕の気持ちがわかる!?君の背中しか見る事が許されない僕の気持ちがわかる!?わかんないよね?だって君はそんな僕を見たことなんかないもの!君は僕をその他大勢と同じにしか見ていなかったんだからッ!!君はテニスしか頭にない…君はいつもテニスしか見てなかったんだからっ!!!」
 激しく捲し立て顔をあげ
た不二は、その瞳にたくさんの涙を潤ませていた。不二の想いを現すかのような、綺麗な、透明な涙。
「こんなに見てるのに…好きなのに…愛してるのに…!!」
「不二…」
 不二がそんなに、自分を見ていたなんて知らなかった。そんな不二の気持ちに気付かなかった。気付こうともしていなかった。今まで、テニスの事しか考えていなかったから。
「僕は…ただ君に……見て欲しかっただけだったのに……っ」
「………」
 不二の手塚を想う気持ちは純粋。見て欲しくて、見つめて欲しくて、ずっとずっとその傍らで見つめていた、一途な想い。その一途すぎる想いが故に、壊れてしまったんだろう。
 ここまで不二を追い詰めてしまったのはひょっとしたら自分なのかもしれないと、手塚は感じた。
  どくん、
 手塚の胸が熱くなった。 自分を一途に想い続ける不二のその姿に。
「不二…すなまい……俺は……」
 少し迷うように、そっ…と延ばされた手塚の手を愛しそうに握りしめた不二は、まだ少しびくびくしている手塚の体に縋るように抱きついてきた。
「大好きなんだよ…手塚……何よりも……」
「不…二……」
 手塚は躊躇いながらも、腕を不二の背に回す。そして始めて不二のその体がこんなにも暖かい物なのかと、手塚は素直に思えた。だが…それに気付くのはもう、遅すぎたのかもしれない。
 この壊れた不二を修復する事はもう、不可能だった。
「…だから…だから僕は…もう君からテニスを奪うしか………ないんだ…」
「な…!?」
 ゾクリと背筋に狂気的な殺気を感じ、手塚は不二の背に回していたその腕で不二を突き放す。
「手塚…」
 突き飛ばされた不二はゆらりと体を起こすと、這うようにゆっくりと手塚ににじりよって来る。
「ヒ…!」
 その様はあまりにも異様。
「君が僕を見ないのは…君にテニスがあるからなんだ…君からテニスが無くなれば、君は僕を見てくれる…いや見るんだ…見なくちゃならないんだ…」
 目もとに浮かべた純粋な涙とは対照的な程、不二の口元が妖しく微笑んでいく。
「ね…手塚……あのまま僕の嘘に気がつかないでいてくれれば良かったのに…あのまま君の中からテニスが消えちゃえば良かったのに…ね?」
 不二が手塚の左腕に手を延ばす。反射的に手塚はその手を振払った。
「よ…よるな…ッ!」
「そうすれば…ずっとこのままでいられたのに…」
 逃げる手塚の左腕を掴み、引っ張った。
「う…ッ!」
 
痛みに動きの鈍った手塚を、不二は自分に引っ張り寄せ組みしいた。
「こんどこそ…君のテニスを……壊さなくちゃ…ね?」
「なーーーーーー!!?」
 不二は俯せに押さえ付けた手塚の体に跨がり、動かせないよう左腕を掴んだ。堕ちた手塚の体力は不二の小柄な体さえはね除ける事が出来ない。
「離せっ…不二ッ!」
 カチャ…何かのケースを開けるような音が聞こえた。
 俯せにさせられた手塚は背後で不二が何をしているかよく見えない。手塚の全身にただならぬ悪寒が走る。
「嫌だ…嫌ッ!!助け…やめてくれ不二ッ!!」
「覚えているから辛いんだよ…テニスの事なんて頭から忘れてしまえば…苦しまなくていいんだ」
 チクリとした痛覚が腕に突き刺さる。
「い…」
「テニスも…今までの事も、全部……。全部忘れさせてあげる…」
「嫌…」
「これで君は……僕しか見えなくなる…!」
「嫌ァーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」

 

「さよなら……手塚」

 


 純粋な心はとても脆く繊細で、ふとした事で純粋な狂気へと……変わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ただいま手塚」
 不二は部屋に入ると、部屋で待つ最愛の者の名を呼んだ。返事はない。
 鞄を玄関のわきに置くと、不二はそのまままっすぐ手塚の居る部屋へと歩み入る。手塚の横たわるそのベットに。
「みんな君が海外に留学したって本気で信じてるんだ。…くすっ、こんな近くにいるのにね?」
「………」
「ふふ…今の君に言ってもわかんないか?そうだよね…」
 不二は青学レギュラージャージを脱ぐと、手塚に歩み寄ってその頭を愛しそうに撫でた。
「でもこれで君の瞳はもう…大石も、乾も、英二もタカさんも桃も海堂も…あの一年も、誰を見る事もなくなったんだ」
 手塚の瞳が不二以外の誰かに向けられる可能性は、完全に排除されていた。遮断された人間関係、消された手塚の居場所。
「嬉しいよ手塚…君は今、本当に僕だけを見てるんだよね? 」
 カチャ…不二はケースから取り出した注射器にいつものように薬を入れる。
「………」
 僅かに唇の動いた手塚の腕に、その針をちくりと刺し、ゆっくりとピストンを押し切る。
「……っ…」
 声も無く見開かれた手塚の瞳は、程なくしてトロンと虚ろな目つきへと変わる。
「大好きだよ…僕の手塚…」
 不二はそんな手塚の頬を撫でまわすと、優しく口付けをした。
「僕だけを…見て」

 
 殆ど生気の感じられ無い手塚は、ただその瞳に不二だけを映していた。




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2003.05.08
ついにこうきたか犯罪者不二よ…って、アレ?この話これで終わりじゃないのかい? ま、ここでendでもおかしく無いんだけど…
でもまだ終わりません。次回最終話です。




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